バナー


 カデンツァ 第二章   


                        -1-


廉にとっては幸せな夜だった。

泉を入谷の泉の部屋まで送って帰り、自分の部屋に戻ったあとで、廉はあらためて泉に電話した。電話せずにいられなかった。

彼女の声をどうしてももう一度聞いて、さっき起こったことが本当かどうか、現実を確認したかった。

泉が自分と普通に話をしてくれていること自体が信じられない。

かたくなに自分を避けているようだった泉が、自分のことを知りたいと言った。

自分のことを知りたい…そんなに正直に、告白されたのは正直何年ぶりだろうか。

いい年してみっともないとは思ったが、これが舞い上がらずにいられるか。

泉は電話で今日はうれしかったと言った。

廉は電話を切った後も、ウイスキーを片手にこみ上げてくる幸せな気分に一人で浸った。



翌日、廉とデイビッドは泉がステージに立つ時間を見計らってJにやってきた。

デイビッドは先日ルーシーが表参道のレストランで騒ぎを起こした時に泉が支払った金を返す必要があった。デイビッドは本当に申し訳なさそうに泉に謝った。

デイビッドは封筒に、迷惑をかけたからということで倍の金額を入れていたが、泉はもらう理由がないと言って、デイビッドに余分な札を返した。

そういうことはきちんとしている。普通の大学生ならありがたくもらっておくところだろうが、泉はその点、潔癖すぎるくらいだ。

またデイビッドはルーシーが泉と一緒に遊びに行きたいと言っていると泉に話した。泉はルーシーが「一人で寂しいのですね」とつぶやいた。

「それで考えたんだが、次の土曜日、A店は棚卸で休みだろう?一緒に東京を歩くのはどうかと思って。君が来てくれると心強い。僕も長いこと日本を離れてたし」

廉はここぞとばかりに泉を誘ってみた。デイビッドたちが一緒なら、彼女もそれほど警戒はしない。

「いいですよ。どこに行くか、もう決めました?」

「一応ね。浅草とかどうかなと」

「そうですね」


泉は待ち合わせの時間と場所を聞いて、次のステージのために控え室に戻った。週末に彼女に会える!

その後姿を見ながら、デイビッドが廉に訊ねた。

「彼女とうまく行ってるの?」

廉はにやりと笑った。

「そう思うか?」

「なんだよ。言えよ」

廉は笑い出した。デイビッドは廉をつついて廉に迫ったが、廉はまだ何もないと言って、デイビッドの攻撃をかわした。

「本当にそうなったら言うさ。約束する」

デイビッドはなかなか鋭い。俺はこの状況を誰かに知られて困ることはないが、彼女は嫌がるかも知れない。

アリオンでこれが表ざたになったら、彼女の立場ではいろいろ面倒なことになるだろう。

廉は自分がどこまで我慢できるか自信がなかった。





週末、廉はデイビッドとルーシーを連れて浅草の駅の待ち合わせ場所にやってきた。泉は待ち合わせ場所に既にいて、彼らを待っていた。

デイビッドとルーシーはともかく、泉は廉のTシャツとジーンズという普段着の姿を見るのが初めてだったので、あらためて廉が何を着ても似合う人なのだと思った。

こんな人がどうして私なんかに興味を持ったんだろう? 泉にはそれがどうしてもわからなかった。

雷門をくぐり、仲見世で、ルーシーはいろいろな日本語の文字の入ったTシャツをお土産にたくさん買い込んだ。

「一番」や「三番」のよくみかけるものから、「カツ丼 650円 親子丼 550円」などと入った蕎麦屋の定食メニューのような泉が見たこともない変なプリントまである。

ルーシーは自分で持ちきれないほどだったので、宅配便でデイビッドの部屋まで届けてもらうことにしてもらった。

ルーシーは何か新しいものを見つけるたび、泉にそれが何か訊ねる。

雷門の入り口にかかっている大きな提灯や、赤い鳥居。立ち並ぶ露天商。泉はそれをひとつひとつ丁寧に説明していった。

遅い昼食を浅草の商店街にある有名なてんぷら屋で取り、江戸東京博物館をまわった後、4人は水上バスで浜離宮へ向かった。

浜離宮には特にこれといって見るものはないが、いかにも日本的な庭園を一回りした。

そして築地の市場で観光客相手のマグロの解体を見、干物やで珍味をつまみ食いしてはしゃいだ。

アメリカ人の中には魚をとても嫌がる人間もいるが、ルーシーもデイビッドもそうではないらしい。デイビッドも自分たちの酒の肴になるようなものを買っている。

散々歩いて疲れきったところで、泉は夜の東京タワーに行くかと訊ねた。ルーシーは当然と言うような顔をした。

もう歩くのはうんざりしていたデイビッドは、行くならタクシーでと答え、夕方で混雑している都心の道路を車で移動した。

東京タワーの展望台に上った時、東京は日の沈む直前で、全てがオレンジ色の光に包まれ、非常に美しかった。ルーシーはその景色を見ながら感動してしばらく動かなかった。

疲れていたけれど、連れてきて良かったと泉は思った。東京はごみごみした街だけれど、こんなにきれいな景色も見られる。

それからすぐに日が落ちた。4人はもうあまり移動はせずに、廉の知っている芝の日本料理屋で食事をした。

その後、泉は先に3人と別れた。