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 カデンツァ 第二章   


                        -11-


泉がこんなにうまいものを作るなんて、思っても見なかった。廉は内心、本当に驚いていた。

普通、ピアニストは料理など自分でしない。大体、包丁を握るなんて、もってのほかじゃないのか?

でも、こんなにできるなら、それこそ腕のふるいがいがあるように、いつも自分のそばに置いておきたい…

廉は自分のエゴだとは思いながら、そう遠くないうちに、決定的な一言を言ってしまいそうで怖かった。


食事を一通り楽しんで、廉が新しい缶ビールを開けたとき、部屋の電話が鳴った。もう9時を回っている。誰だ一体?

「もしもし」

廉は電話に出ながら、泉が食器を片付けるのを眺めていた。

「こんばんは。河部です」

河部?何の用だ…嫌な予感がする。

「どうしたんですか。こんな時間に」

「実は、富田先生から電話があって、廉さんが理恵さんの居場所を知らないかと…」

理恵?

「何のことですか?」

「どうも、昨日お母様とおうちで喧嘩されて、家を出ていかれてから行方がわからないと言うんです」

あの、馬鹿娘。とうとうやったか。

「それで、どうして僕に?」

廉はたぶん、自分が苦虫を噛み潰したような顔をしているだろうと思った。泉がそれをじっと見ている。

「お友達が、上野の駅でさっき見かけたと言うことらしいんですが、廉さん、心当たりがありませんかと富田先生がお訊ねです」

何だ、あの親父…俺は保護者じゃないぞ。

「上野にいるなら、あのライブハウスにいるんじゃないですか? 電話かけてみれば?」

「ライブハウスってどこですか?」

「デラロサってとこです。大学生ご用達の店」

「済みませんが、廉さん、一緒に行ってもらえませんか」

関わらないつもりでいたが、河部はどうやら許してくれないらしい。

「何で僕が…」

「富田先生は非常に困ってらっしゃいますし、今回は奥様も相当心配されています」

奥様…その奥様のお父様が問題なわけか。廉はちょっと考えて、折り返し電話すると言ってその電話を切った。




廉は腕組みしたまま電話の前を行ったり来たりしながら考えた。

一体、どうしたものか…

泉は自分の方を見ないようにしながら食器を下げ、キッチンで後片付けを始めている。




結局、廉はデラロサに電話して、店員に理恵らしき人物がいるかどうか訊ねた。店員はフロアを確認して、それらしき女性はいるが、外国人の隣で眠っているようだと言った。

やはり行かざるを得ないか…泉に何と説明したらいい?


廉はキッチン行き、手を泡だらけにしている泉に後ろから抱きついた。

「今日は、帰さないつもりでいたのに…」

泉は、「じゃ、陰謀失敗ですね」と笑った。

彼女を放したくない……自分が帰ってくるまでここに居てくれればいいのに。

廉は泉が食器を洗い終えるまで、その格好のままでいた。そして、泉が自分の手を洗い終えると、タオルを渡して、今度は正面から泉を抱いて唇を奪った。



そのキスは深くて熱いものだったが、泉は呼吸ができなくてつらいようなふりをして廉から身体を離した。

一体どこまでわかっているのだろう。廉は泉の顔を覗き込んだ。泉は視線を合わせようとしなかった。

さっきデラロサと言ったのは聞こえていたに違いない。理恵のことだと気づいているだろうか?




「送ってく」廉が言ったが、泉は首を振った。

「だって、さっきまでビール飲んでました」

「タクシーで行く」

デラロサは、泉の部屋からも遠くない。廉はすぐ上着を取ってきて、泉を連れて自分の部屋を出た。