バナー


 カデンツァ 第二章   


                        -13-


一人で部屋に帰った泉は、暗い気分から抜け出せずにいた。

結局、この付き合いは無理なのかもしれない。廉が一体どういう人間なのか、あまり良く知らないうちにこんなことになってしまったが、自分が付き合うには少し生活のレベルが高すぎる。

廉は外資に勤めているから、あれぐらいのマンションに住んでいてもおかしくはないのかもしれないが、あの音楽室は、個人でやるには少々やりすぎだ。

大体ピアノがあれだけ弾けるということは、小さいときからかなりやっていたのだ。

部屋のピアノ線がいつ切れるか心配ばかりしている自分なんかと釣り合うとはどうしても思えない。

こんな背伸びの連続の付き合いが、一体いつまで続けられるのか?

廉は今のところ、私が持たざるものだということを十分理解している。けれど、そのうちいつか、理解しているだけではどうにもできない状況が来る。

やはりこんな付き合いは早いうちにやめてしまったほうがいいのではないか。

彼と一緒にいる時に感じる幸せな時間とその胸が苦しくなるような考えを、泉は何度も天秤にかけた。




夜に廉から電話をもらった泉は、廉の言い訳をまるで人事のように笑って聞き流した。それ以外にどんな態度を取ったらいいのかわからなかった。

廉のことを自分がどうするべきか、もう少し考える時間が必要だ。泉は今日は疲れているからと言って、早々に電話を切った。

次の日曜日には、アリオンの60周年記念パーティが催されることになっている。それにはアリオンの社員、取引先だけでなく、契約社員やその家族まで招待されていた。

泉のところにも1ヶ月ほど前に招待状が届いており、講師にはそれぞれの店の店長から直接、全員参加の要請が来ていた。

アリオンにいれば、彼と都合が悪くなっても顔を合わさなければならないこともある。職場やバイト先で恋愛するということはそういうことだ。

パーティには、一体何を着て行ったらいいだろう…

泉は現実的な悩みにもどって眠りについた。





土曜日のアリオンでのレッスンは、8時30分からの生徒が休みだった。残っているのは小澤の個人レッスンだけである。

このレッスンが終わると、アリオンもちょっと短い夏休みに入る。小澤はこのところめきめき腕を上げ、あと1ヶ月もすれば、本当に「ワルツ・フォー・デヴィ」が弾けるのではないかと思わせるほどだった。

もともと楽器をいろいろ触りたい生徒らしく、最近ではサックスとヴァイオリンの教室にも顔を出していると言っていた。

そんなに練習時間があるのか疑問だったが、ピアノに関してはまじめに練習してきてくれているし、好きでやってくれているのなら、泉はそれが一番だと考えていた。


8時40分を回った頃だった。講師の中井が部屋に駆け込んできて、テーブルでお茶を飲んでくつろいでいた女性講師たちに言った。

「ねぇねぇ、今、受付に森嶋廉の元婚約者が来てるわよ。すっごい美人」

「こんやくしゃあ?ちょっと、それ聞き捨てならないわね! 誰から聞いたの? 本人が言ったの?」

「ううん。高梨さん。あの人古株でしょ? でも、森嶋さんねらってたから、ショックだと思うわー。だって、うまく行けばいずれは会長婦人…」

「ちょっと、見に行こうよ」

そうして、二人が席を立ってロビーに出て行った。


「あの…会長ってどなたのことですか?」

受付から戻ってきたピアノ科講師の中井に泉は訊ねた。婚約者の話もともかく、会長云々というのはどういうことだろう?

「あら。まぁ、あなたは知らなくて当然よね。でも、アリオンの親会社がレグノだってことは知ってるでしょ?レグノ・デリソーラはアリオンの社長のお兄さんがやってる会社で、レグノグループはもともと森嶋楽器がはじめた企業体。私たちもはじめ、だまされてたのよ。コンサル会社から来たなんて言うから…まぁ、森嶋の家の遠い親戚かなんかだろうって…でも森嶋部長は、正真正銘、レグノグループの会長の孫よ」

泉はとりあえず「へぇぇ、そうだったんですか」と言ってはみたものの、正直、まっすぐ立っていられるのが不思議なくらいだった。

うろたえているのを悟られないように、すぐに講師室を出た。

とにかく落ち着かなきゃ。

泉は小走りにロビーの前を通り過ぎようとしたが、その時、さっき中井が言っていた「元婚約者」らしい背の高い美しい女性が、高梨と話しているのが見えた。


「もうちょっとお待ちくださいね。森嶋部長は今日はこちらに来られることになっていたんですけど、明日のパーティの準備とかいろいろお忙しくて、最近は予定がめちゃくちゃなんです」

昨日の夜の電話で、泉は廉がたぶん今日来れないだろうということを知っていた。高そうなスーツを着て、背筋の伸びたきれいな人…泉はちらと女性を見て自分の教室に向かった。


真っ暗な教室で、泉は電気のスイッチを入れて中に入った。奥のピアノの椅子に腰掛け、背中を壁に持たせかけ、目を閉じる。

彼がレグノ・グループの会長の孫。やっぱり…何かあると思ってたのだ。

泉は自分の呼吸が速くなっているのを感じて深呼吸した。

どうして今まで疑ってみなかったのだろう。もちろん森嶋という名前が気にならなかったわけではない。けど、もし関係があるにしてもまさか本丸だったなんて。

自分の全身から力が抜けていくようだ。

ああ。馬鹿みたい……どうしたってだめだわ。彼と付き合うなんてどう考えたってありえない……


富田理恵。アリオンの会長の孫。それに、元婚約者…

私には話しにくいことばかりだったに違いない。それともいずれは話そうと思ってた?でも、こんなこと、どれが出てきたって、私に勝ち目はなかった。もともと。

泉は大きくため息をついた。涙さえでない。これが驚きだったのか、予想内の出来事だったのか、なんだかもう判断がつかない。

自分が傷つきたくなかったから、いろいろな障害を想定してはいた。廉は自分とは違う世界に住んでいるということも判っていた。

だから、悲しくもない…悲しくなんて……


泉はもうこれ以上、そのことを考えるのはやめにしようと思った。何かがきっかけで、自分の気持ちがあふれてめちゃくちゃになったら、それこそレッスンなんて続けられない。

泉はピアノのふたを開けて、自分の思いつくままに弾き始めた。