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 カデンツァ 第二章   


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1時間ほどして、小澤がレッスンにやってきた。泉はピアノに恐ろしいほど集中しており、小澤が入ってきたのに気づかなかった。

小澤が泉の横に立って、

「先生」

と声をかけた時、泉は驚いてピアノの椅子から飛び上がった。


「そんなに驚かないで下さい。僕は何にもしてません」

小澤も驚いてうろたえた泉をなだめるように自分の手を泉の腕に添えた。

「ごめんなさい。ごめんなさい…入ってこられたのに、気がつきませんでした」

泉が謝った。



「先生、今のピアノ…なんだかすごかったですね。ものすごく集中されてて。誰の曲ですか?」

「誰の?…いえ、ただめちゃくちゃに弾いてただけなんです。すみません、本当に。小澤さん、どうぞ座ってください」

泉は小澤に自分の隣のピアノの椅子を勧めた。小澤はさっきのが泉のオリジナルだと知ったためか、驚きを隠せない様子だった。

「先生は、作曲もされるんですか?」

椅子に腰掛けた小澤が言った。

「作曲と言うほどのことでは…ただ、少し思いついたときに書いたりするだけです」

泉は恥ずかしくて穴があったらそこに逃げ込みたいような気分だった。落ち着いて。落ち着いて。心の中で、呪文を唱える。

「とても情熱的な曲ですね。先生があんなピアノを弾くなんて…ちょっと驚きました」

ああ、それ以上言わないで。泉は耳まで赤くなった。



それ以上、そのことに触れられたくないのだと察した小澤は譜面を出して準備しながら、別の話題を持ち出した。

「…夏になりましたけど、先生はお休みは?」

小澤が気をつかって別の話題を振ってくれた。

「…ええ。来週からです。小澤さん、ご存知だと思いますけど、来週と再来週、アリオンは夏休みです」

「ああ、受付に案内が貼ってありましたよね。どこか行かれるんですか?」

折り目を確かめるように小澤は譜面台に楽譜を押し付けた。楽譜の片方をクリップで留める。こうしておくと、途中で譜面が勝手に閉じたりしない。

「静岡に実家があるので、帰ろうかとは思ってますけど…それだけです」

小澤はそれを聞いて、ちょっと迷ってから泉に言った。

「そうなんですか。9月からもアリオンにいらっしゃいますよね?」

変なことを訊く。何だろう、一体。

「ええ。今のところは。他に何もありませんから…何か?」

「いえ。何でもありません」

小澤は微笑んだ。不審に思いながらも、泉はレッスンに入った。


その夜も、廉から電話があった。廉は泉が明日何を着ていくか困っているのを知っていた。もしまだ決まっていないのなら、知り合いのブティックに連絡しておくから朝、そこに行ってみるかと訊ねた。

しかし、泉はJであまり着ていない予備のドレスを着ることに決めており、Jのロッカーからそれを持って帰ってきていたので、必要ないと返事した。

ドレスはサテンで色はシルバーグレー。あまり目立たない色だが、ハイウエストで、すそがひらひらしている、少し若めの甘い感じのするドレスで、Jのステージではほとんど着たことがない。

それに同じ色のショールを持って行けば、それなりに見られる格好にはなる。

泉は廉とそれ以上話を続けられなかった。頭が痛いのでと言って電話を切った。