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 カデンツァ 第二章   


                        -15-


翌日、泉は自分で髪を纏め上げ、メークをして出かけた。会場は赤坂のホテルで、ロビーで開場の5分前に真紀と待ち合わせしている。

早くついた泉は、ロビーの円柱の周りに作られた座れるスペースに腰を下ろして真紀を待っていた。アリオンの関係者らしき人たちもぼちぼちやってきて、ロビーの奥の喫茶室や会場の廊下の方に散らばっている。

みんな今日は着飾ってきれいだ。廉の話だと招待客は800人ほどで、社員だけではなく家族も招待されている。

それにしても知らない人間ばかり…泉は真紀が早く来てくれることを心の中で祈らずにはいられなかった。

しばらくして、昨日アリオンへ来ていた廉の婚約者だといわれていた女性がそばへやってきた。隣に30台半ばの女性もいる。やはり呼ばれていたのだ。当然と言うべきだろうか?

彼女たちは泉が座っている円柱のちょうど後ろ側に腰を下ろした。どちらもすばらしく仕立ての良いドレスを身に着けている。間違いなくオーダーメイドだ。それに比べて…


すぐに席を立てば良かったのだが、おそらく人がそこにいるとは知らないまま、彼女たちは廉について話をし始めた。今立つと驚かれてしまう…泉はそこを動けなくなってしまった。


「それで、昨日は会えなかったの?」

年上の女性が訊いた。

「ええ。まぁ、今日、どっちにしても会えるし、いいかなと思って」

「そう。それで、うちの父はあなたに何て言ってたの?廉に継がせるからって?」

「ええ。なんだかそんなことはおっしゃってました。…けど、さつきさん。私、廉さんがそんなに簡単に気持ちを変えるとは思えないんです」

「そうね……でも、あなたの気持ちはどうなの?あなたが廉のことをまだ想ってくれているのなら、廉だって…」

「それは…」


ああ、やっぱり立てばよかった。どうしてこんな変なところに……


「さつき!」

ロビーの向こうから、年配の女性の大きな声がした。

「ああ、ママ。智香子さんよ。ひさしぶりでしょう?」

さつきと呼ばれたその女性は、智香子も立たせて自分の母親の方へ歩いていった。やれやれ。泉はほっと胸をなでおろした。

3人は久しぶりの再会を喜び合って、会場のほうへ入っていった。

おそらく、さつきと呼ばれた女性は廉の姉?

そして廉と、さっき智香子と呼ばれていた女性は付き合っていたのだ。結婚の話も出るほどに。

きっとこの間、私にしたように、何度もキスをして…それどころか……

泉はかぁっと頭に血が上るのを感じた。私、一体何を考えているんだろう?馬鹿じゃないの?泉は首を振った。


「泉!」

ようやくやってきた真紀がそれを見て不思議そうな顔をしている。真紀も今日はとてもきれいだ。

「どうしたの?」

「ああ、いえ。なんでもない。それより、今日はすごいわね。そのドレス、新調したの?」

真紀は今日、すばらしく明るいオレンジ色のドレスを着てきた。真紀にしては珍しくすそが広がっているお姫様のようなゴージャスなドレスだ。大学のコンサートの大きな舞台でもこれなら映えるだろう。

「ふふーん。だって、こういう機会にちょっと見せ付けてやらないといけないと思って。ここの男どもに。いつも馬鹿にされてるから」

真紀はどう?という風に腰に手をあてて、横を向いて見せた。泉はその様子に微笑みながら立ち上がり、真紀と一緒に会場の方へ向かった。


会場には本当に大勢の人がいた。パーティが始まってアルコールが入りはじめると、泉たちにはいろいろな人から声がかかった。

真紀のドレス効果だろうか。特にアリオンのスタッフや、男性講師たちから次々に声がかかる。そこにいた若い男たちはほとんど泉たちを無視することはなかった。


その様子を会場の奥の方で廉がちらちらと見ていた。これからスピーチと言う大仕事があるので、壁際に立ってスタンバイしていた廉は、泉の方へ行くことはできない。石井真紀のオレンジ色のドレスに比べると、泉はかなり地味だったが、その控えめな美しさは誰より際立っている。

こんな人がたくさんいるところで、彼女が石井真紀のようなドレスを着てきたら、きっととんでもないことになっただろう。

それにしても、自分以外に向けられている泉の優しい笑顔が許せない気分だ。どうして、もっと早く自分のものにしておかなかったのだろう。そうすれば後からでも泉をいじめてやることができたのに。



廉がそんなことを考えていたとき、突然、目の前に智香子が現れた。廉は驚きのあまり言葉を失った。

「久しぶり…」

智香子は昔と同じ笑顔でにこやかに笑った。

「どうしたの?いつ戻ってきたの?」

泉を気にしながら廉は訊ねた。

「今週のはじめ。木曜日にA店にも行ったのよ。おじ様から聞いて。木曜日はそこにいるっていうから」

「ああ…」

廉は返事にならない返事をしていた。木曜日は泉も来ていたはず…

「私ね、ブルックハウスやめたのよ。こっちの会社に就職することにしたの」

「へぇ」


ブルックハウスというのはUSの中堅の投資会社だ。智香子はその父親顔負けのM&Aコンサルタントだった。

廉がUSの大学に入りなおした後、追いかけるようにUSにやってきた智香子は、同じ経営学修士の資格を取り、どっぷりその世界にはまっていった。女性でこれほどまでに成功した例も少ないだろう。

USで智香子は確かに廉の恋人だった。子供の頃からの知り合いで、年頃になって自然とそうなった。廉はこのまま行けば多分智香子と結婚するだろうと思っていたし、智香子もそう思っていただろう。

しかし、結局そうならなかった。

けちのつきはじめは、廉がレグノを継がないと言ったことからだ。

ある冬休みに日本へ戻ってきた廉は、智香子の両親がいる前で、父親の匡にそれを宣告した。その時の二人の両親の驚きようといったら…

廉の頭の中にはそんな昔のことがぐるりとめぐった。


「ちょっと耳に入れておくことがあるんだけど、2分でいいわ。時間が取れる?」

智香子は指を2本立てて、にっこりわらった。

「ああ」

泉が向こうから自分を見ているのは知っていたが、廉は智香子の背中に手をやり、すぐ近くのドアから会場の廊下へ出た。