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 カデンツァ 第二章   


                        -16-


「それで?」

後ろめたい気分を何とか振り払いながら、廉は智香子に訊ねた。

「あなた、有楽町のブルーアクアの跡地を買おうとしてるでしょ」

廉はにやりと笑った。

「何で知ってる」

ブルーアクアは老舗のファッションビルだったが、今年の春にとうとうつぶれた。施設も古かったし、もう人もそれほど入っていなかった。しかし、場所は有楽町の第2開発地区の最も良いところにある。

「そりゃあ、商売柄、どうしても。ただね、あの土地は手を出さない方がいいわよ」

廉は自分の眉をぴくりとあげた。

「どうして?」

「あの土地の今の所有者は、片岡不動産になってるけど、あそこは30年ほど前は榊原組の土地だったの。それを、片岡不動産の前身の片岡組が、榊原の2代目が警察に捕まったのに乗じて、ほとんど騙したような形で取ったところなのよ」

「ふぅん。でも今は片岡不動産だ」

「榊原の3代目は相当のやり手よ。私、ブルックハウスで一緒だったの。あの土地を取られたことをものすごく恨んでるわ。あそこはもともと榊原の本家が商売してたところだから。で、その榊原が9月にこっちに戻ってくるの」

智香子の話には信憑性があった。なぜなら、この土地の話を有楽町の商店会の人々とするとき、廉は彼らの言葉の端々になんとなくためらいのようなものをいつも感じていたのだ。

「――なるほど」


「あら、こんなところにいたの?」

廉の姉のさつきが会場の扉から廊下に顔を覗かせた。

「じゃ、私はこれで。たまには一緒にあそんでね」

智香子は廉にウインクして、一緒にやってきた姉のさつきとどこかへ去っていった。


相変わらずだ。廉は頭を振って会場に戻り、スピーチの準備をしようとした。

その前に、泉は…と思い、顔を上げた。そこで廉が見たのは、むき出しになった泉の肩を抱いて会場の反対側へ歩いていく哲也だった。




廉はめったに携帯からメールを打たない。電話でメールを打つなんて、面倒で仕方がないからだ。けれど、この時ばかりは放っておくわけにいかなかった。

ポケットから取り出した携帯で、廉はメールを打った。

教えてもらって一度も出したことのない泉のアドレスに。



哲也と一緒に会場の中で座れるところを探して歩いているとき、泉は自分の持っているハンドバッグの中の電話がぶるぶる震えているのに気づいていたが、それを取らなかった。

廉かもしれない…とも思ったが、泉はそれを放っておいた。途中で小さな赤ちゃんを連れたきれいな女性が哲也に挨拶した。

「阿部先生の奥さんだよ」

哲也が言ったのに驚き、泉は「いつもお世話になっています」と慌てて挨拶した。

きれいな女性だ。比べるわけではないが、真紀とは正反対の感じがする。抱いている子供も非常に愛らしい顔立ちだ。泉を見てけらけらと笑った。

「何ヶ月ですか?」

泉が訊ねると、「ようやく3ヶ月になります。まだ首もすわってなくて…」と阿部の妻が答えた。

「皆さんアリオンでお仕事されているんですか?」子供の頭を支えながら向きを変え、阿部の妻が訊いた。

「はい。私もピアノなんです」

「そうですか…私も、ピアノをやっていたんですけれど、この子を授かってしまったので…そろそろ私も働きに出ないといけないんですけどね。阿部も自費でいいからCDを出したいって言ってるし…」

そういえば以前、真紀がそんなことを言っていた。プロモーション用のCDを出したいが、レコーディングにかかる費用が馬鹿にならないので、そう簡単にはいかないと。あれは阿部のことを言っていたのか。

「あ、でも、彼はアリオンに落ち着いてくれて、本当に良かったなと思ってるんです。それだけは。昔はいろいろなところを転々としてましたから」

阿部の妻はそう言って幸せそうに微笑んだ。阿部にも苦労した時代があったのだ。

「阿部さん」

別のピアノ科講師が阿部の妻に声をかけた。彼女たちは知り合いらしく、泉に小さく会釈してその場を去っていった。

そこから後は、真紀が気になってしょうがなかった。でも子供がいたなんて……真紀はこのことを知ってるんだろうか。

哲也が連れて行ってくれた壁際の椅子に座って、泉は真紀をきょろきょろ探した。今日の真紀を探すのは簡単だ。何せあのすばらしく明るいオレンジ色のドレスを着ているのだから。


真紀はちょうど、アルトサックスの若い講師である小坂と杯を交わしていた。しかし、気はそぞろで会場のどこかにいる阿部を探している。そうだ、探しているのは阿部。間違いなく。

ああ、変なことにならなければいいけど…

そうこうしているうちに、司会者が、アリオンの会長が挨拶すると告げた。アリオンの会長――つまり、廉の父親。

匡は廉に確かに似ていた。顔の輪郭は廉の方がほっそりしているが、背が高く、鼻筋の通ったところなど、そっくりといえばそっくりだ。それによく通る声。泉はアリオンにいつまでいられるだろうとぼんやり思って、小さくため息をついた。




泉が匡に気を取られていたとき、真紀は阿部の姿を見つけて声をあげそうになった。しかし、幸い声は出なかった。阿部はその家族と一緒にいたのだ。

妻と子供。匡が挨拶している間、子供が声を出して泣かないように夫婦であやしているその姿は、幸せそのものだった。

真紀は自分が着てきた明るいオレンジ色のドレスが、まるでセピア色にあせてしまったかのように感じた。

一体、自分はなんだったのだろう。あそこにいる幸せな生き物は作り物ではない、本物だ。

匡の挨拶が終わると、真紀は一緒にいた小坂に向かって言った。

「ねぇ、こんなつまらないところ、出ちゃわない? 全員参加だって言うから来たけど、もういいでしょ」



バッグの中の携帯がまた震えている。泉は哲也が他の人に挨拶しているのを横目で見ながら、今度はバッグの中を確認した。廉ではない、真紀だった。

「ああ。泉。悪いけど、私、これからデラロサに行くわ」

「ええ?」

「もういいでしょ。ここは。泉もよかったらどう?」

「…そうねぇ」

泉はすぐに返事ができなかった。

「後から行くわ」

「おーけー、じゃ。あとでね」