真紀がここを出るといったのは、阿部の家族を見たからだろうか…
泉にはわからなかったが、電話の様子だと真紀はそれほど暗い感じではなかった。見ていないんだろうか?
どちらにしても、ここにあまり長くいない方が彼女のためだ。家族と一緒にいる阿部に会うなんてひどすぎる。
泉は携帯をしまいかけたが、メールが入っているのに気づいた。廉からだ。
肩を出すな。
ロビーで待て。
何、このメール?
泉は頭に来て電話をぱちんと閉めた。哲也がぽかんとしてそれを見ていたが、泉はにっこり笑って「最近変なメールが多くって…」といってごまかした。
「泉ちゃん、今日祖父がここに来てる。紹介するから一緒においで」
哲也が泉の腕を取った。泉は気乗りしなかったが、哲也がなんとなく自分を気遣っているような気がして、言われるままに哲也に連れられて会場の上手に向かった。
哲也が泉を連れて行った森嶋の祖父、森嶋正一は羽織袴を身に着けていたが車椅子に座っていた。そばに杖があるのを見ると少しは歩けるのだろうか。
「おお哲也、元気か。店はうまくやっとるか」
哲也の顔を見るなり正一は言った。意思の強そうなあごの感じが廉と似ている。泉はその小さな老人にも廉とのつながりを感じた。
「おじいさん、相変わらずだね。店はご存知の通り、廉のおかげで何とかやってるよ」
「そちらのきれいなお嬢さんはお前の彼女か?」
「はっはっは。そうしたいと思ってるんだけど、どうかなぁ。吉野泉さんです」
泉はちょっと赤くなりながら、少しかがんで老人が差し出した細い腕を取った。
「はじめまして。吉野泉です」
「あなたはピアノを弾く人かな?」
老人はしわだらけの手で泉の手を取ってまじまじと観察した。
「は…い」
泉は戸惑いながら返事をした。さすがにこの人…そういうことがすぐわかる人なんだわ。老人は指の筋肉のつき具合を確認している。
「少し細すぎるな。もう少し太りなさい。ピアノ弾きも体力がないとな」
泉は哲也と顔を見合わせて笑った。
「そうですね。本当に」
「おじいさん。彼女は今度の音教コンクールに出るんですよ。ピアノじゃなくて、作曲でね」
哲也が言った言葉は泉を驚かせた。
「どうしてご存知なんです?」
「そりゃもう。いろんなところから情報は集めてますよ。優秀な大学生は早く抑えておきたいしね」
哲也は軽く笑って見せた。
「そうかね。作曲で。ほほう。曲が作れるのかね。これはまた、なかなかに珍しいお嬢さんだ」
しわくちゃの顔がさらにしわくちゃになった。けれど、その奥に潜む眼光は鋭い。彼はこの人の血を継いでいる。
「うちは楽器屋なのに、そういう才能をもった子供は一人もおらん。皆、子供のころからいろいろやらせておるのに……ま、わしの血ではな。はっはっは」
老人は一人で面白そうに笑った。哲也はなんとなくばつがわるそうだ。
「一度聞かせてもらいたいもんだ。コンクールに出す曲が出来上がったら、聞かせてくれるかね」
老人はそう言って、握ったままの泉の手を軽くたたいた。不思議な感覚。しわだらけでひんやりしているのに、やさしい手。
「はい。お耳汚しにならなければいいんですけど」
泉は微笑んだ。この老人には有無を言わさない何かがある。固い意思があることがそのたたずまいから滲み出ている。だからこそ、この会社はこれほどまでに大きくなったのだ。
泉は危うくため息をつきそうになった。彼はこの人の孫…
泉たちのすぐそばに廉とその家族がいた。智香子と智香子の父親らしき人物もいる。泉も気づいてはいたが、背中を向けて知らんふりをしていた。
廉は今まで自分に家族の話をしてくれたことはなかったし、それはつまり、自分には知られたくないのかもしれなかった。廉の考えていることはわからない。
「やぁ、これは皆さんおそろいで。廉さんも智香子さんも戻ってこられて、これはいよいよおめでたいお話ですな」
廉の家族の向こうから誰かの声がした。知らない中年の男性が智香子の父親と森嶋匡の間で大声でしゃべっていた。
「――そのときはぜひ私に媒酌人をやらせてくださいよ。両家とも長い付き合いですからな」
媒酌人……泉が振り返るとそこに廉の視線があった。困った顔はしているが否定はしていない。泉は視線をそらせた。
まただ。また…
心臓がどきどきし始めた。
ここにいるのは本当に自分が知っている人だろうか。彼は知られたくなかったのだ。自分がどういう家の人間か。
それは私と単に遊びで付き合いたかったから。当然本気などではなかっただろう。はじめからそう考えるべきだった。
ただ、ちょっとした偶然があったから、彼はちょっかいを出してみたくなっただけ。ただのピアニスト。
ラウンジプレーヤーなどしているような女に彼のような家の人間が本気で付き合うはずなどない。
こんなところにいられない…
泉は森嶋正一に「ではまた」と頭を下げ、他の客に挨拶をしていた哲也にも会釈をしてそっと会場を出た。
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