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 カデンツァ 第二章   


                        -19-


泉が連れて行かれた部屋は、何の飾りもない小さな会議室だった。泉はその部屋の会議机とセットになっている椅子の一つを勧められて座った。河部は少し離れたところに立ったままだ。

「失礼なのは承知の上で、あなたのことを少し調べさせていただきました」

ああ。やっぱり、そういうこと…予想通りだ。泉は何も言わなかった。

「広告会社を辞められて、大学に入りなおされたとか。大変だったでしょう」

こういう人は手順を誤らない。前置きはきちんとするのだ。

「私、大丈夫ですから、単刀直入にお願いします」

泉は昔、働いていたときのように、ビジネスライクに言った。

自分の恋愛について、誰かにどうこう言われたくないし、もう気持ちは決まっているのだ。こんなことで無駄な時間を使いたくない。

「そうですか。では、お訊ねします。吉野さんは、廉さんとお付き合いされているのですか」

河部は直球を投げてきた。自分からそうしてくれと言っておきながら、泉もこの質問には少し考えさせられてしまった。

「……さあ、どうなんでしょう。私も本当のところはわからないんです。けど、お知りになりたいことは、私が廉さんと面倒なことにならないかどうかということですよね?」

「そうです」

河部は頷いた。泉は少し首をかしげるようにして微笑みながら言った。

「私、もう廉さんとお会いするのをやめようかと思っています。私とはどう考えてもつりあわない方のようなので」

廉に言う前に、他人に言ってしまうのは確かに気が引けた。けれど、もうどうしようもない。私が言わなければ、たぶんこの人が嫌なことを口にしなければならない。

河部がふぅと息をついた。

「あなたは賢い方ですね。廉さんはいずれ、レグノグループを継がなければならないでしょう。本人はそうしないと言っていますが、会社の状況からして、廉さんに継いでもらわないと、困る事情があるんです」

泉はわかっているという風に小さく頷いた。

「小さいとはいえ、アリオンにも200名程度の社員がいます。廉さんには彼らの生活も守る責任がありますから」

河部の言うことはもっともだ。泉は昔、自分の父が泣く泣く会社をつぶしたのを知っている。だから、経営者と呼ばれる人間が置かれる立場も良くわかっている。

「アリオンにとって大事な方だということはわかっています。それに残念ながら、私たちそんな深い仲ではないんです。どうぞご心配なく。これ以上、廉さんとどうなることもないと思います」

泉は静かにそういった。河部は申し訳なさそうにポケットから封筒を差し出した。

「あなたが、大変な生活をしていらっしゃるのは知っています。こんな失礼なことはしたくないんですが、社長もけじめをつけておきたいと言われているので」

本当にこんなことがあるんだ。泉はちょっと驚いたが、笑って封筒を返した。

「こんなことをしていただいては困ります」

「吉野さん」

河部は返された封筒をどうしようか迷っていたが、泉が「では、これで」と言って先に席を立った。

それ以上、話すことは何もない。泉は暗い気分で部屋を出て、ロビーの方へ歩いた。



廉はまだ出てきていない。ずっと私を待たせるつもりだったのか、それとも、もう忘れてしまってるのか…

でも、もうどうでもいい。廉とはおしまいだ。


泉はロビーを抜けてホテルの玄関からタクシーを拾った。




廉がロビーにやってきたのは、結局、自分のスピーチが終わった後だった。もう1時間以上経っている。そこに泉の姿はなかった。とりあえず電話だけはしておかなければと考えた廉は、自分の携帯を取り出したが、ちょうどそこへ河部がやってきた。

「吉野さんはもう、帰られました」


廉は河部がどうしてそんなことを言うのか、理解できなかった。

「なんでそんなこと…」

「彼女は自分から帰ったんです。あんなにきれいな引き際の女性もめずらしいですな」

河部は顔色一つ変えずに言ったが、その言葉は廉を激昂させるに十分だった。

「一体、何を言った…? 彼女に何を言ったんだ!」

ロビーにいた何人かの人々が一斉に廉の方を向いた。

「声が大きいですよ。私が申し上げたのは、廉さんにはレグノに責任があるということだけです。私は彼女はそのことは知らないと思ってましたから…。けど、違っていたようです。自分からお話になったんですか? それともはじめから?」

河部の言うことに、廉はショックを受けた。もちろん、近いうちに話そうとは思っていた。隠しているつもりもなかったが、彼女は自分が森嶋匡の息子だということは知らないはずだった。あの態度からして、知っているわけがない…

いや、もしかして、最近知ったのか?だから、この間の電話…

廉は「くそっ」と言って床を蹴った。

もちろん、それ以外にも思い当たる節はある。今日の智香子のことだってそうだし、この間の理恵の件もそうだ。しかし、泉が一番嫌がりそうなのは、どう考えても自分が森嶋の家の人間だということだった。

廉は携帯で泉を呼び出そうとしたが、泉は携帯の電源を切っているようだ。

「まだお客様は帰っておられません。もう少し冷静になってください」

河部は廉の様子を見てそんなことを言い、会場に去っていった。



どうしてこんなことになってしまったのだろう。自分が森嶋の家の人間だと言うことを黙っていたこと以外、やましいことなど何もないのに。まして、自分はレグノを継ぐつもりはないと周りには何度も言ってきたのだ。

廉はさっきまで泉が座っていた円柱の椅子に座り込んだ。