夜8時をまわってようやくパーティの片づけを終えた廉は、アリオンの社員たちが執拗に打ち上げに誘うのを何とか断って、自分の車で泉の部屋へ向かった。
車を降りて泉の部屋のインターフォンを押す。
何も反応がない、と言うか、本当に小さい音だが、部屋の中からピアノの音が聞こえてきている。たぶん泉が弾いているのだ。防音室にいるのだとしたら、外からだと聞こえないだろう。
しかし、廉は諦め切れなかった。電話はもう何度もした。ずっと電源が切られたままだ。廉はみっともないのを承知で、泉の部屋の扉をどんどんたたいて泉の名を呼んだ。
「もう、誰よ?うるさいわね!」
変わりに出てきたのは、隣の住人だった。扉を少しだけ開けて廉にどなった。
「ここはねぇ、みんな防音が入ってんの。どんどんやっても部屋に入ってるときはダメなの。それに、聞こえない?今日は彼女インベンション・ナイトでしょ?」
その女性が言ったとおり、泉の部屋の中から聞こえているのはバッハのインベンションだ。
「あれが始まったら、彼女はもう何にも聞こえないんだからね。たぶん一晩中弾いてるわよ。今2クール目の真ん中」
「インベンションを?」
泉にそんな習慣があるとは知らなかった。
「そう」
女性はそっけなく言って、自分の部屋の扉をバンと閉めた。
廉は扉の向こうで、ただ一心にピアノを弾く泉を苦々しく思いながら車に戻った。
泉の部屋の前を立ち去った廉は、世田谷の自分の部屋ではなく、父母のいる家の方へ車を走らせた。これからのことを一言、どうしても言っておかなければならない。これまでもそうだったが、自分の気持ちを変えるつもりはないと。泉とのことを認めないなら、自分も家に帰るつもりはない。
廉は家のガレージに車を入れず、塀に横付けして家の中へ入っていった。
「あら、ぼっちゃま」
家政婦の喜代子が突然戻ってきた廉に驚いて、玄関先で叫んだ。
「奥さまー!ぼっちゃまがお戻りです」
廉は喜代子の脇を抜けるようにして廊下に上がり、父母のいるリビングへ向かった。
「あらまぁ。どうしたの、こんな時間に。帰ってくるって言ってくれてたら、用意しておいたのに」
裕子は廉の姿を見て、そう言いながらキッチンへ行こうとした。
「お母さん、僕は何もいらないから。ここにいて、ちょっと話を聞いて」
廉は大きなソファに座っている父に向かって、リビングの入り口で仁王立ちになって言った。
「お父さん。前から言ってる通り、僕は家は継がないし、自分の好きな人と結婚するつもりだ。河部を使って僕に干渉するのはやめてくれないか。これ以上何かやったら、場合によっては僕はUSへ戻る」
匡はそれを聞いて顔をゆがめた。
「おまえはアリオンがどうなってもいいのか。こんな大変な時期に。アリオンの従業員を路頭に迷わすつもりか」
「それを本当に考えなきゃいけないのはお父さんだったんじゃないの?僕はできる限りのことはしてるつもりだよ。僕に全てを任せるつもりがあるなら、僕のしたいようにさせてくれ。レグノを継がないからといって、別に会社を潰すつもりはないよ。ちゃんと立て直してみせる」
「じゃあ、おまえはレグノをどうしても継がないというのか」
「ああ。そのつもりはない」
廉は匡とにらみ合った。どちらも一歩も退かない。
「あの娘は、ゆるさん」
「それもお父さんには関係ないことだ」
匡はそれを聞いて、持っていたウイスキーグラスを床へ投げつけた。グラスが粉々に砕け散った。
「おねがいだから、やめてちょうだい!」
裕子が悲鳴をあげた。
「僕は僕の仕事を全うする。アリオンは立て直す。だけどそれだけだ。跡を継ぐなんて、今時古臭いこと言わないでくれ」
廉はそう言い放って部屋を出た。
後ろから匡の「待て、廉!」という声が聞こえたが、廉は振り返らず廊下を戻って家を出た。
この家に戻ると、いつもこうなる。父は何もわかっていないし、聞く耳も持っていない。何もできないくせに。
祖父の会社を、父もおばも、結局うまくやっていくことができなかった。できなかったこと自体は悪いと思わない。けれど、その傾いたものを人に押し付けるようにして立て直させ、まして、自分の思い通りにしようなんて、都合が良すぎる。
俺は親父の思い通りにはならない。
廉は乗る必要のない首都高に乗って、車をとばした。
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