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 カデンツァ 第三章   


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アリオンのパーティの後、哲也のつれない態度に、礼子は本当に頭にきていた。兄の匡もその妻裕子も自分がまるでいないかのようなそぶりだった。

もちろん、これまで面倒をかけてきたのだから、兄妹だからといって優しくしてもらえるとは思えなかった。けれど、息子にまであんな態度に出られるとは…

哲也は自分を一目見て「何しに来た」と言ったのだ。自分の息子なのに。礼子はそれから自分のマンションに戻り、浴びるほど酒を飲んだ。

何しに来た? 何しに来たですって?

そんなこと決まっている。お金が必要なのだ。せびれるものなら匡にでもせびりたかった。あんな大きなパーティを開く余裕があるのだから、アリオンが傾いているなんて嘘だ。哲也は廉がいなければもはやアリオンは成り立たないと言っていたが、そんなことはない。

廉など今年の初めにアメリカから帰ってきて、ちょっと経営に口を挟んだだけじゃないの。それもコンサルの会社にまだ籍をおいたままだと言うし。

大学を卒業してからずっとアリオンに尽くしてきた哲也を差し置いて、廉がアリオンの社長になるなんてありえない。絶対ありえない。

大体、廉にはレグノがあるじゃないの。どうしてわざわざアリオンにまでちょっかいを出さなきゃいけないのよ。

礼子は哲也をどうしてもアリオンを継がせたかった。社長になってもらわねばならなかった。お金が必要だから。そうでなければ、借金を返せない。哲也からもらった300万で、一息ついたと思ったのだが、また別のところからお金を払えと言ってきた。

哲也が助けてくれないと。どうしても、社長になってもらわないと。

大体、辞める辞めると言いながらまだ父親の正一もレグノに居座り続けているし…

礼子の酒は増える一方だった。とにかく今度払うお金が必要だ。この間大きなお金を返済したので、今度払う分は100万でいいと言われている。けれど、うちには今そんなお金はない。

礼子は電話の受話器を取り、哲也の部屋に電話をした。電話は留守番電話で、哲也は出なかった。哲也が電話に出ないことはほとんどない。それとも私からと知って?

礼子は留守電に電話をくれるようメッセージを残した。その後、礼子は駅前のいつも出入りしているパブに行った。

そこでは礼子はまるで女王様のようだった。なぜなら、礼子はここで飲むと大概気が大きくなって、そこにいる人たちにおごって回るからだ。ここはつけがきく数少ない店だ。

しかしその日はちょっと様子が違った。礼子がその店に入って5分もしないうちに、強面の男たちがやってきて、店の客やママが唖然とするなか、礼子を店の外に連れ出してしまった。

「何なの、一体、あなたたち」

礼子は酒でふらふらしながら強がって見せた。

「鳴海さん。お金もないのに、こんなところで、人におごってていいわけ?いいかげんにしなよ。うちは10万でももう待たないよ。前に言ったでしょ」

「支払は明日のはずでしょ」

「払えるあてもないくせに…わざわざ借り換えの契約書作ってきてあげたんだよ。さぁ、指かして」

礼子の腕を別の男が取って、指に朱肉をつけさせた。礼子はふらふらなので、もちろん何をされているのか良くわかっていなかった。

男たちは礼子の拇印を取って礼子をその場に放り出した。礼子は立ち上がる力もなく、繁華街に投げ出された。

男たちが去ったあと、商店街の人々が集まってきて礼子を取り囲んだが、礼子は意識もなくそこに倒れこんだままだった。


哲也が警察から連絡をもらったのは、その日11時を回ってからだった。水道橋の病院に礼子が運び込まれていると言うのだ。

仕事の後、ようやく家にたどり着いたばかりの哲也は舌打ちをした。まただ。今度は何だ?置いたばかりのかばんの中から財布だけを抜き取って、哲也は再び外に出た。

タクシーを拾って病院に向かう。警察は礼子に特に外傷はないが、駅前の商店街でやくざに何かされたらしいと言っていた。

とうとう変なところに手を出したのか。もう何があっても知らないと思ってはいたが、結局こうして助けてしまうのは、母親にとっていいことなのか。

哲也はタクシーの中で自問した。


病院に着くと、哲也は時間外の受付で礼子がどこにいるのか探してもらった。大きな病院なので、自分で探すなど到底無理なのだ。礼子は5階の内科の病棟にいるらしかった。内科のナースセンターに行って説明をしてもらうように受付の女性は言った。

昼間は人でたぶんごった返している病院の廊下は、今はしんと静まり返っており、電気も非常灯だけで暗い。哲也はそのちょっと気味の悪い廊下を歩いてエレベータに乗った。

5階のナースセンターで哲也は礼子が入院することになったのを知った。アルコールが大分入っているので、起き上がれないらしい。年配の看護師が礼子のところへ案内しがてら、本当は今夜一晩泊まるだけだが、礼子は健康診断を受けた方が良いと言った。

ただ酔っぱらって連れてこられたのに、礼子は一人部屋にいた。たぶんアルコールのにおいがきつすぎて、他の患者に迷惑がかかるからだ。

哲也は礼子の子供のような寝顔を見ながらあきれていた。一体この母親はどこまで俺に迷惑をかけるつもりなんだろうか。

しばらくすると、看護師に呼ばれた当直医がやってきた。

「まぁ見た目はただの酔っ払いですが…こんなに飲まれるのは感心しませんな。明日、具合が良くなったら退院してもらいますが、一度、アルコール依存症の検査を受けられてはどうですか。うちはそういう専門外来もあるんです」

「はぁ。しかし、そんなに悪いんですかね」

「酒が抜けないと正確な検査はできませんが、顔色が悪い。胃も荒れてるみたいですし、肝臓も硬いですな。ぱっと見た限りでは常用飲酒かと…心当たりはありませんか?」

「…えぇ、まぁ、それは確かに…」

哲也は頭をかいた。アルコール依存症…

この状態ではそう診断されてもちっともおかしくない。医者はもう一度哲也に検査するように勧めて、明日退院するときに予約を入れるように言った。

哲也は母親の顔をもう一度見に病室へ行った。部屋にはいると、アルコールのにおいが鼻をつく。こんなに飲んで…

できることなら、礼子を投げ出したかった。もう一人で自由に生きたかった。けれど、この人はそれでも母親なのだ。

哲也はそれから看護師がまた巡回にくるまで、暗い病室の中に座っていた。