パーティ会場のホテルから逃げ出すように部屋に帰った後、泉はインベンションのはじめから終わりまでを結局、3回繰り返した。そして倒れこむように昼まで眠って、翌日の午後、静岡の実家へ戻った。
日本は全国的にお盆休みで、アリオンは2週間、Jも来週の中ごろまで休みである。廉からは何度も携帯に電話があるようだったが、泉はほとんど電源を切っており、「連絡がほしい」という留守電を聞くだけだった。
何も告げずにきてしまったから、廉はたぶん宙ぶらりんの状態なのだ。
彼とはもう付き合わないとはっきり言うべきだったが、電話でそんなことを話したくなかった。その話をしたら、廉はきっとものすごく怒るに違いない。いずれにしても、休みが終わったら嫌でも廉に会わなければならない。
それに、あの社長秘書とかいう男に言われたわけではなかったが、泉はアリオンをやめるつもりでいた。会長と呼ばれる人もきっとそうしてほしいと思っているに違いない。
たかがアルバイトの立場で、経営者の息子に声を掛けられたからと言って、別れた後まで居座られたら会社も困るだろう。
その後、アリオンのバイトで稼いでいた穴をどうやって埋めるかも問題だ。東京に戻ったら、新しいバイト先を探さなければ…
廉とのことは一体何だったのだろうと、泉は家に帰ってからもずっと考えていた。
彼がJで私を見ていなければ、たとえアリオンで働いていたとしても、自分に気づくこともなかったにちがいにない。彼のことを知らなければ、こんな年になって、胸がきゅんとなったり、舞い上がったりすることもなかった。
久しぶりに味わった、人を好きになるという感情…
それは、ただただ、ピアノを弾いていなければという脅迫的な状況から少しだけ抜け出した、不思議な時間だった。
「はぁーい」
泉はその声に驚いて包丁の手を止めた。一緒に食事の準備をしていた母の公子が大声で何かに答えたのだ。
「誰か来たわ。だれだろ、こんな時間に」
公子はそう言いながら玄関に出て行った。公子に言われるまで、泉は玄関のチャイムが鳴ったことに気づかなかった。あれから時々、考え事ばかりしてしまって、母にもどうしたのかと何度か訊ねられている。
泉は手を止めていたねぎを再び切りはじめた。こんなにたくさん作って…
泉は山ほど並べられた皿を前に母の気持ちをありがたく思った。
「いずみぃ」
母がリビングの方から泉を呼んでいる。なんだろう?手を拭きながら応接間の方へ出てみると、そこには廉が立っていた。どうしてここに?泉はあまりにも驚いて声が出せなかった。
「やぁ」
廉が半分怒ったような、皮肉たっぷりの表情で泉に声をかけた。白い襟付きのシャツにベージュのチノというあっさりした格好だ。
「わざわざ東京からいらっしゃったの。あなた、お付き合いさせていただいてるんですって…?」
公子が少し口ごもる。泉はそれを聞いてびくっとした。一体何を母に言ったのだろう。
「どうしてここが?」
廉は真紀に教えてもらったと言った。真紀に…ということは真紀にも何か言ったということね。また頭痛の種が増えた。
廉は公子にきれいに包装された小さな箱と、持ち手のちゃんとつけられた酒瓶を差し出した。
「これは泉さんのお母さんに。僕が好きなとらやの最中です。それからこっちは泉さんのお父さんに」
この人、こんなに抜け目のない人だったんだ。泉はこの状況をどうしたらいいものか迷った。
「まぁ、まぁ。すみません。ありがとうございます。夫もよろこびます」
公子はうれしそうだった。亡くなった父のことを気にかけてくれる人など、もう家族以外にほとんどいないからだ。
「泉、もうあなたは台所の方はいいから、こっちにいらっしゃい。すぐ食事にしますから。森嶋さん…? もこちらでどうぞ。今日はね、泉が帰ってきたから、すごく張り切って、ご飯たくさん作ったんですよ」
母は廉を食事に誘っている。泉は慌てた。
「お母さん、ご迷惑よ。突然お食事に誘うなんて…私たち、ちょっと外で…」
「いや、僕は全然かまわない。泉さんのお母さんの手料理に招かれるなんて光栄です。彼女もすごく料理がうまいので、どんな方に教わったのかと思ってたんです…」
泉は廉をにらんだ。
「まぁ、お上手ですこと。田舎料理ですけど、どうぞ楽しんでいってください」
公子は笑ってキッチンの方へ行ってしまった。
|