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 カデンツァ 第三章   


                        -3-


残された泉と廉は、ダイニングテーブルをはさんで立ったままにらみ合った。

「元気そうだな」

廉はそう言いはしたが、笑ってはいなかった。

「別に、病気はしてませんから」

自分の腕を体に巻きつけるようにして泉は言った。「どうして、こんなところまで」

「君が怒っているのはわかるが、僕に言い訳するチャンスをくれてもいいんじゃないか?」

本当に言い訳しに来たの? 泉は廉を一瞥した。

「あなたがいくら言い訳しても、私たちの間にある大きな溝は埋めようがないと思いますけど。私は、もうあなたとお付き合いするつもりはありません」

廉はその決定的な泉の発言に言葉を一旦飲み込んだ。

「君は時々突然、すごいジャブを打つな。KO負けしないのが、不思議に思うよ」

私だってこんなことは言いたくない。あなたを傷つけるってわかってるようなことを。うまくいかないってわかってるのに、どうしてわざわざ口に出して言わないといけないの?

「私だって自分が泣かないのが不思議なくらいです。でも、私たちにはまだ何も起こっていませんから、お互い大人になるべきじゃないですか?」

「大人って何だ?君の言うとおり、おとなしく別れるってことか? ばかな。僕は十分大人だし、自分の恋愛に他人から口を挟まれるなんて真っ平ごめんだ」

廉の目が鋭く光った。この人がこういう目をしているときは怖い。本気だ。

「ずいぶん自信があるんですね。そんなに自信たっぷりに言われると、私が間違ってるのかと思ってしまうわ。あなたは、理恵さんや智香子さんのことを説明してくださるつもりでいらっしゃったんですか?でも、それを説明していただいても、本当に問題なのはそんなことじゃないことはあなたもご存知でしょう?」


泉が少し大きな声をあげたところに、公子が盆にビールと天ぷらがたくさん入った皿を持って戸口に立っていた。

「まぁまぁ、何ですか。大きな声で。お客様に…さぁ、どうぞそちらにお座りになってください」

公子は廉に椅子をすすめ、扇風機を廉の方へ向けた。

「今日はね、泉の好きなナスをたくさん畑から取ってきたんですよ。ナスは今が一番おいしいから。それに、ちょっとまだ時期じゃないけど、市場でレンコンも買ってきたから、はさみ揚げにしたの。泉に食べさせてもらいました?この具はうちのオリジナル。あと、良い海老をたくさんね」

ビールを注ぎながら公子は廉に滔々と話をした。公子らしい。私が廉と喧嘩していたのは知っているのだ。けれど、そんなことはまるで介していない。ビールを注いでいるということは、公子は廉をうちに泊めるつもりだ。

泉はその様子を横目で見ながら小さくため息をついて、キッチンの方へ出て行った。

台所へ戻ってきた公子は、泉に大根と手羽の煮物、豚肉と長いもの揚げだしをそれぞれ皿に取って持っていくように言った。どうしてあんなことになっているのか、聞いてきてもよさそうなものだったが、公子は何も訊いてこなかった。

泉は決して気分良くとは行かなかったが、公子が黙っているのなら、自分も何も言う必要もないと考え、何も言わなかった。

ダイニングに戻った泉は皿をテーブルに置いて、静かに席に着いた。後は母が持ってくるだろう。公子がサラダを持ってやってくると、食事が始まった。

泉はほとんど口をきかず、主に公子と廉が話をしている。公子は廉が訊ねるのに答えて、夫が貿易をやっていて会社をつぶしたこと、その後がんで亡くなったこと、また今、自分の実の妹の家のお茶畑の手伝いをしていることなどを語った。

泉はそんなことまで話して欲しくなかったが、廉は話を聞き出すのがとてもうまいのだ。たぶん、ビジネスでもこういうやり方なのだろう。

一方、公子の方も訊かなければならないことは、自分の立場を利用してしっかり訊いた。廉は自分の家が世田谷にあること、実家もその近くだが、別に住んでいること。結婚した姉が一人いること。

そして、家は老舗の楽器屋で、今の会社から派遣される形で楽器屋の方へ戻っているのだと廉は説明した。

老舗の楽器屋とはよく言ったものだ。確かに間違ってはいないが、公子が想像しているような小さな楽器屋でないことは確かだ。

廉は、自分は学校を卒業してアメリカの会社に入ったので、今、家業を継ぐつもりはないと言った。公子がそれでも大丈夫なのかと訊ねると、別に自分がやらなくても、他にたくさん適任がいますからと廉は答えた。


廉は公子に勧められたものはほとんど全て平らげた。実際、公子が作ったものにハズレなどない。

おなかがいっぱいになって大変だろうとは思ったが、廉は平気な顔をしていた。ビールも2本は開けているが、酔う気配さえない。

公子は当然のように食事の後に風呂を勧め、泊まっていくように言った。泉ももうその頃には諦めていて、廉が泊まっていくのも仕方がないと考えていた。


廉が風呂に入っている間、公子は泉と洗濯物をより分けながら、廉のことを訊ねた。

「それで、あなた、彼とはどういうことになってるの? 彼が来たときから、面白くないようだけど…そんなにひどい喧嘩したの?」

「お母さん…」

泉は顔をしかめた。

「あのね。彼とは、もうなんでもないの。付き合うかなぁと思ってたんだけど、それはやめることにしたの。だから、本当はここに泊まってもらうなんて困るのよ」

泉の話に公子は目を丸くした。

「どうして? あんな男前の素敵な人なら、私だって立候補したいくらいだわ」

「もう!お母さんったら。とにかくダメなの。本当は休みに入る前に、やめるって言ってくるべきだったんだけど、なんだか機会をのがしちゃって、こんなことになっちゃったの。だから、お母さん、彼をあおらないでね。ほんと」

公子は泉の話を全く本気にはしていないようで、半分笑って聞き流しているようだった。

「まぁ、私が口出しすることじゃないけど、いい年なんだからそろそろ先のことも考えた方が良いわよ。ウエディングドレス着るつもりなら、若い方がいいものねぇ」

泉はあきれてもう何も言わなかった。