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 カデンツァ 第三章   


                        -4-


食事の後片づけをして、廉の布団を敷き終わった頃、廉が風呂からあがってリビングに現れた。泉の心臓がどきんと鳴った。

「まぁ、まぁ、よく似合ってるわね。ねぇ、泉、これお父さんのだったのよ。せっかく作ったのにちっとも着てくれなくて」

廉は父が昔着ていた浴衣を着ていた。浴衣姿の廉なんて想像もしなかったけれど、まるで、百貨店のチラシのモデルのようだ。この人ったら、憎たらしいけど本当に何を着ても似合うのね。

泉は、そんな気持ちを気取られないように、それについては何も言わず、「私も入ってくる」と言って風呂場へ向かった。


泉が風呂に入っている間、廉は公子と話をしていた。その話の内容は泉にはわからなかったが、泉が風呂から上がった時、廉はすっかり公子と打ち解けて、笑い声さえ聞こえていた。

リビングに出て行くと、廉はちょっと目を見張ったようだった。公子が「じゃ、私もお風呂はいろかな」と言って立ち上がる。

泉はキッチンへ行って冷蔵庫からビールを取ってきた。廉は既に公子から1本もらって開けていた。





「君は意外といける口なんだな」

廉が言った。

公子の言ったとおり、本当に風が気持ちいい。海からの風は湿っているのだが、今日は少し気温が低いせいか、それほどむっとしていない。縁側に廉と並んで座った泉は何も言わずに一口飲んだ。Tシャツに短パンという軽い格好なのに上げた髪のせいで白いうなじがなまめかしい。泉に触れたいが、それは許されない雰囲気だ。

泉がここに座ったのは、自分ときちんと話をしようとしてるからだと廉は思った。だが、説得されるのは泉の方だ。彼女を手ばなすつもりなどないのだから。この2、3日、泉と連絡が取れない間、廉は本当に気が狂いそうだった。

さっき、泉の母親の前で、久しぶりに泉の顔を見たとき、泉に会えたうれしさがこみ上げる一方、何も言わずにいなくなってしまったことに対する怒りがまた新たに沸いてきた。

廉はその込み入った感情をどうしたら良いのか自分でもよくわからなかった。けれど、手放すことなんてできない。もう一度ちゃんと、彼女に自分を認めさせなければ。廉は深く息を吸った。


「さっきは話が途中になってしまいましたけど、私…あなたとはもうお付き合いしません。あなたと私は住む世界が違います」

廉が口を開こうとした途端、泉が振り向いて言った。やっとこっちを向いたと思ったら、そんなこというのか…。

「僕は君が何と言おうと諦めるつもりはない」廉は泉を鋭く見返した。

「住む世界が違う?それは僕が森嶋の家の人間だからか? 僕はアメリカに渡った時に、レグノは継がないと決めたんだ。だから結局、智香子とも別れることになった」

このことを口にするのははじめてだった。当時は誰もが間違いなく、廉と智香子が結婚するものと思っていたのだ。もちろん自分も。しかし、そうはならなかった。智香子は家を裏切れなかった。かわいそうに。そこで巻き起こるであろう、数々の厄介なことに耐えられる自信がないと彼女は言った。

「智香子さんのこと、好きじゃなかったんですか?」

まるで女を好きになったことがない人間みたいに言うんだな。廉は正直な気持ちを言うために少し間を置いた。

「ああ、好きだったさ。その時は。でも、彼女は僕より家が大事だった」

泉はそれを聞いて、下を向いてしまった。

「嫉妬した?」廉が訊ねると、泉はぷいと横を向いた。

「自意識過剰です」

泉はそう言ったが、嫉妬していないわけがない、と廉は思った。泉がかわいい。やはりどうしても彼女に認めさせなければ。


「僕は諦めるつもりはない。君がどう考えていようと、僕は絶対に諦めないからな」

廉は泉ににやりと笑って、またビールを一口飲んだ。

「あなたが諦めようが、諦めまいが、この話は終わりなんです。私はあなたとはお付き合いしませんから」

そう言って、泉も自分の缶を一口飲んだ。

「どうせ君が負けるぞ。だって、僕は間違ってないから」

「勝手にしてください」

しかし、泉はもう怒っているようには見えなかった。きわめて冷静に、普通に自分に接しようとしている。怒るでもなく、避けるでもなく、どうしてそんなに平静を保っていられるのか。

本当に、なんて女だ。俺より5つも年下だというのに。廉は自分の顔を笑いながら手で覆った。

どう考えてもめちゃくちゃなのは俺の方だ。こんなところまでやって来て、彼女の母親まで巻き込んで、無理やり彼女の家に泊まりこんで。もちろん、出来ればこんなことはしたくなかった。

けれど、この女がそうさせるのだ。今まで付き合ってきた女たちとは違う。他の誰にも渡すわけにはいかない、どうしても手に入れておかなければならない女だ。

廉は泉の横顔を見ながら、どうやって泉を追い込むか考えはじめた。



翌朝、廉は東京へ戻っていった。泉は廉の車を見送りながら、この先、一体何が起こるのか不安だった。廉は本当に諦めていない。彼が言ったとおり、廉は間違ったことはしていない。自分に恥じることなど何もない。

そして泉自身は、どうやったら彼を心の中から追い出せるのか、何も考えないで済むようにできるのか、あれからずっと考え続けている。これまではっきり自覚はしていなかったが、こうなってみると、泉はやはり廉のことが好きだったのだと思った。

それも、自分でも気づかないうちにかなり深みにはまっている。あんな風に熱く、むさぼるように唇を奪った人はいままでいなかった。彼になら抱かれても良いと本当は思っていた。

もうそれは望むことはできないけれど。結局、最後の結論はいつも同じ。どうして毎度、こんな仕方のないことを考えてしまうのか。

泉は自分が余計なことを考えないで済むように、公子が寂しがるのもわかっていながら東京へ戻った。