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 カデンツァ 第三章   


                        -5-


「それで?」

真紀は阿部とのいつもの待ち合わせ場所である表参道のオープンカフェで阿部をにらみつけた。

「じゃあ、私をだましてたつもりはないって言うのね」

阿部は横を向いて真紀と目を合わそうとはしなかった。

「ああ。そんなつもりはない。僕は真剣だった。今も。大体、子供がいようがいまいが、僕たちは後ろめたい関係だろ?」

「だから?あなたは奥さんのことはもう愛していないと言ったけれど、それならどうして私に子供のことを隠す必要があったの?」

「別に隠してなんかない。君が聞かなかっただけだ」

真紀は頭にきて阿部に自分のコップの水をぶちまけた。

「残念だけど、もう私たちダメだと思う。二度と電話しないで」

真紀は怒りを他にどうすることもできず、周りにいた客を驚かせながら椅子を後ろに倒しながら立ち上がり、阿部を残してその場を去った。

情けない…彼がいつか自分の所へ来てくれると信じていたなんて。泉が心配していたとおりになってしまった。結局、あの男は私の身体が欲しかっただけだったんだわ……

そう思うと、涙が自然にあふれてきた。

馬鹿みたい…馬鹿みたい……ちょっと巷で有名なピアニストに声をかけられたからって、有頂天になってた。

表通りに出ると、泣きながら歩いている自分を人々が振り返る。おかしいわよね。おかしいわ。自分でも本当に笑えるもの。こんなに単純に引っかかる女なんてそうそういないわよね。

考えてみれば典型的な浮気のパターンじゃない。奥さんが妊娠して、出産して、子供のことで忙しい時に他の女に手をだすなんて。阿部が妻を愛しているかどうかが問題なのではなく、つまり、身体の捌け口が欲しかっただけ……

真紀は通りの人々の目もはばからず、いつのまにか声をあげて泣いていた。




レグノの本社7Fの廉が割り当ててもらっている部屋で、廉は千葉から報告を受けていた。

「本当にすみません。軽率でした」

「もういい。そんなに謝らなくても。今後、こういうことがないように気をつけてくれればいいんだ」

千葉が悔やんでも悔やみきれないといった様子で謝るのを見て、廉はかわいそうに思った。昨日、A店の様子を一人で見に行った千葉は、スタッフルームに鞄を置いて別の部屋で打合せをしていた。

鞄の中には、今度のブルーアクア跡地の入札資料が入れてあったのだが、千葉がスタッフルームに戻ってきた時、その中にあった資料を哲也が盗み見しているのを見てしまったのだ。

幸いなことに千葉は、慌ててはいたが少し様子を見て、哲也がそれを鞄の中に戻すのを見てから知らないふりをしてスタッフルームに戻った。


廉はその報告を聞いて、ため息をついた。資料をおきっぱなしにした千葉はもう二度とこんなことは起こさないだろう。それより問題なのは…

閉店計画の件を外部に漏らしたのも、たぶん哲也だったのだ。礼子かもしくは哲也だろうとは思ったが、本当は信じたくなかった。

あいつがこれに本当に噛んでたなんて…

自分の身内にそういう人間が出るのがたまらなかった。礼子のことがたぶん哲也を追い詰めている。


その2日前、静岡から戻ってきたその日に、廉はデイビッドから別の報告ももらっていた。どうやら、アリオンが、というよりA店の店長である哲也が不正をしている証拠を見つけたというのだ。

デイビッドと彼についている本田はここ1ヶ月、レグノの方でアリオンから報告された会計資料と、アリオンから提出されている実資料とを細かくつき合わせしていた。

デイビッドは会計処理に関してはプロで、普通の日本語はあまり話せないのに、会計のことなら漢字でも読むことができる。ハーヴェイ&スウェッソンでは、日本の外資企業の会計コンサルを何度もやってきたからである。


デイビッドは廉に、哲也が既に2000万を超える額の横領をしているのではないかと伝えた。非常に細かい操作で、何度も回を重ねて、小さい金額を積み上げるとそうなるようだった。

しかし、証拠はきちんと取れているし、これを突き詰めれば、間違いなく哲也は落とせる。


外に洩れれば訴えられるかもしれない。アリオンのこの状況では、銀行に与える印象は最悪だ。そんなことになれば、倒産を免れない…


廉はこのことが表ざたにならないうちに、礼子を社長の座から降ろすことを考えていた。