バナー


 カデンツァ 第三章   


                        -6-


アリオンの夏休みを終えてはじめて出勤したその日、泉は同じアリオンのピアノ科講師である中井とともに人のいないレッスンルームに呼び出された。

部屋には廉と千葉、それに哲也もいて、おどおどしながらやってきた二人に哲也が座るように勧めた。

部屋に入ったときから、廉は中井ではなく、泉をじっと見つめていたが、泉は視線を一度合わせたきり、廉を見ようとはしなかった。

「ここにきてもらったのは他でもありません。お二人に、来年3月から新店舗へ移っていただく打診です」

中井と泉が席に着くなり、廉が切り出した。中井も泉も驚いて廉を見た。

「新店舗はまだ決まっていませんが、おそらく有楽町になります。そこにはホールつきのレストランも併設する予定で、今後のレグノの新規事業の拠点になるところです。ここと同じように音楽教室を置きますが、それはどちらかというと上級者向けの小さな教室に特化します。つまりセミプロ、もしくはプロを目指す生徒のための教室です」

廉はきちんと仕事をしている。自分のように毎日やるせない気持ちでなど過ごしていない。こんな風にほんの少し姿を垣間見ただけで、心をかき乱されたりはしないのだ。泉は廉の話をぼんやり聞いていた。

「それから前にも話をしたと思いますが、アリオンは今まで明確化されていなかったプロデュース事業をこの新店舗を拠点に本格的に始める事になりました。うちには良い先生がいっぱいいるのに、今まではどうしてもということで委託された場合にしかやってなかったんですが、これを本格的にやれるようにするためです。お二人にははじめ、上級者コースの講師をお願いするつもりですが、もう少し事業体系が整ったら、プロデュース部門に参加していただけないかと思っています。こちらとしては、中井先生には各店舗のクラスコンサートのサポートをやっていただきたい。中井先生のクラスでは普通の発表会ではないものを、いつもやっていらっしゃいますよね。私たちは、そのコンサート手法を非常に高く評価しています。他の通常のものと差別化を図って、生徒さんが希望すればそういう事に参加できるようにしたいのです」

確かに中井のクラスの発表会はすごいのだ。お金もかかっているが、発表会なのにバックバンドはプロだし、イベント屋をちゃんと呼んできて、会場やPAやアリオンのお仕着せではないものをやっている。

「それから吉野さん。あなたにはそのプロデュース部門で少し勉強してもらって、できればいずれはレグノ専属の音楽製作事業に関わってもらいたい。まだものになるかならないかわからないが、レグノではいずれアリオンで学んだ優秀な人を集めて独自の音楽製作もやるつもりですから」

音楽製作事業?

それは一体どういうことなのだろうか。曲を作ることを言っている?そういえば、この間、廉と行ったライブハウスに出ていたBeats12も…
ああ。

泉ははたと思い至った。廉はそのつもりなのだ。いずれ。彼らは自前で曲を作るのだから。それも売れる曲を。

「ホールつきのレストランを併設すると言ったのは、実はこっちがメインなんですが、ニューヨーク・ハーレムのアポロシアターがやっているような出場オーディションができるところを作るつもりなんです。そこに出られるのは、うちの生徒だけじゃありません。音楽を志す一般の人々が対象です。その彼らに、うまくアリオンのレッスンを受けてもらったり、プロになれる人間にはレグノのバックアップをつけようと思っています。その拠点となるのが、新店舗です」

壮大な計画だ。廉はきっとずっと先のことまで考えているのだろう。自分がレグノに戻った後のことも。泉はため息が出そうになるのを慌てて押し殺した。


「もちろん、変わっていただくにあたって、お二人のお給料は引き上げるつもりでいます。大体倍ぐらいにはなると思っていて下さい」

「お給料が上がるのはうれしいんですけど、実際のところ、私に何を期待されているのか、まだよくわからないんですが」

中井が言った。

「そうでしょうね。でも、私たちが中井先生に期待していることは、通常の発表会クラスではできないようなコンサートを、つまり、希望する生徒たちにプロと一緒に演奏できるような企画をしてほしいんです。それにひいては各店舗の講師ののモチベーションを上げること。中井先生はそれができる方だと思っていますので。そういう意味では、講師と言う立場ではなく、コンサートプロデューサということになりますが。中井先生がそういうことをやりたくないと言われるのであれば、もちろんこのA店で今までどおりでもかまいません」

廉の熱のこもった話に、中井は目をきらきらさせていた。

「とても面白そうなお話です。私はぜひ、参加させていただきたいと思います。けど、今、私が持っているクラスを全部見ながらでは無理です。どうすればよいですか?持てない分は誰かに引継ぎしていただけるんですか?」

「もちろんそれも考えています。ご心配なく」

廉の返事に中井は満足し、椅子に座りなおした。

「吉野さんは、何か質問は?」

鳴海が泉に話を振ったが、泉は首を振って「いいえ」と答えただけだった。

質問などあるわけがなかった。ここをやめようと思っているのだから。



「では、詳細が決まり次第、またお知らせします」

廉はそう言って、打合せを終わらせた。



講師室へ戻る前、泉は鳴海を呼び止めた。廉はそれを横目で見ながらスタッフルームへ入っていった。

この話を知ったら彼は怒るだろうか。たぶん、間違いなく。

泉は鳴海に、「どこか人のいないところで」と言って、空いている小さなレッスンルームを探した。

ピアノと電子ピアノが1台ずつ置いてある小さなレッスンルームで、泉は鳴海に自分が近く辞めるつもりであることを告げた。

鳴海は驚いて理由を尋ねたが、泉は学校が忙しくて大変になっているからとだけ答えた。

泉は鳴海が自分になんとなく好意を持っているのは知っていた。だから鳴海がぐずぐず言って引き止めにかかるのも判っていた。それでも廉と話をするよりはましだ。

彼に本気でののしられるよりは。


10分ほどで話は終わった。鳴海は納得はしていなかったが、引き止める権利もないことは知っていた。

このままA店にいたいということなら、時給を上げても良いとまで言ったが、泉の決心は変わらなかった。だからもう少し時間をかけて考えてと言うのが、鳴海の最大の譲歩だった。

すぐ廉に話をするかどうかはわからなかったが、いずれは廉の耳に入るだろう。

泉はただのアルバイトなのだから、やめるといえばすぐにでもやめられるはずだ。ただ生徒のいる話なので、きちんと引継ぎをするべきだと考えたから、その引継ぎが済むまではいるつもりだった。しかし、それがすんだら、ここにいる理由はない。

アポロシアターのようなオーディションをするライブハウス。本当の音楽を追及する人たちがやってくることになる。きっと…

それが見られないのは本当に残念だけれど、ここをやめるのは自分で決めたことなのだから。泉はどうにかして心を強く持ちたいと思った。



「何の話だ。さっきの席で言えないようなことか」

スタッフルームに戻った哲也に廉が訊いた。

「気になるか」

哲也がにやりと笑ったのが気に食わない。幸いスタッフルームには誰もいなかった。

「ああ」

「知りたいなら、自分で訊いてみろ」

「……そうするよ」

廉は哲也にはそう言った。しかし泉が自分に話をしてくれるとは到底思えなかった。

あれから、自分の家からかけても、携帯からかけても、泉は電話を取らない。公衆電話なら取るかもしれないが、自分とわかった途端に切られるのではないだろうか。

結局、廉はどうすることもできなかった。