その夜、泉が最後のレッスンを終えてレッスンルームから出る準備をしていると、隣の部屋からなにやらわめき声のようなものが聞こえてきた。
泉が部屋をでて恐る恐る隣の部屋を覗くと、なんと、阿部が真っ暗な部屋の中でべろんべろんに酔っ払って床に座り込んでいる。
「おおおお、いずみぃ。おまえかぁ、まきに別れろとかいったのはぁ」
「ちょっと、阿部先生?どうしたんですか。しっかりして」
泉は阿部の手から酒瓶を取り上げようとしたが、阿部はしっかりそれを握っていて離そうとしなかった。
「何で別れなきゃなんないんだぁ。嫌だぞぉ。俺はぁ」
一体、どうしたというのか? 今日は阿部の来る日ではない。真紀に会ったのだろうか?
「おい、いずみぃ。おまえが、真紀の代わりをしてくれるのか?」
阿部はそう言って、泉に襲い掛かった。泉は突然のことに悲鳴をあげて逃げようとしたが、阿部は泉の手首をしっかり握って床に押し倒した。
「やめて! やめてください! 阿部先生!」
悲鳴を聞いて、鳴海と廉がレッスンルームに駆け込んできた。
廉が阿部を引き剥がし、暴れる阿部の腹に一発、拳が入った。阿部はうっと言ってその場にうずくまってしまった。
「吉野さん!」
鳴海が泉を助け起こしたが、泉の心臓は恐ろしさで爆発しそうだった。ぶるぶる震える泉の肩を抱いて、鳴海は泉を落ち着かせようとしていた。
廉はその様子を横目で見ながら、千葉を大声で呼んだ。生徒がほとんどいなくなっていたのは幸いだった。
千葉がやってくると、廉は阿部を一緒に家に送って帰るように言った。廉に一発食らった阿部はもう抵抗しなかった。廉は厳しい顔つきで二人を外に連れ出し、それぞれ千葉と哲也を連れ添わせて車に乗せた。
その夜、泉は真紀が阿部に別れを告げたことを知った。
泉はアリオンで阿部が酔っ払って大変なことになったと真紀に伝え、しばらくは阿部と同じ時間帯に顔を出さないほうが良いと言った。あの調子だと、阿部に何をされるかわからない。
真紀は火曜日の2時間だけしか今はクラスを持っていないし、練習室を使わせてもらうようなことがなければ阿部のいる日にアリオンにわざわざ行くこともないだろう。
真紀はわりとあっけらかんとしていたが、泉はなんだか心配だった。
その日の夜、もう1件電話があった。廉からだ。しばらくかかってきていなかったのに。
泉は電話を握り締めながら、呼び出しのバイブレータが切れるのを待った。
廉が電話をしてきている。私がその先にいると信じて。
たぶん今日のことを心配しているのだ。
心配……
いや、それとも疑ってる…?私が阿部先生と何かあるかもしれないと…
自分に襲い掛かっていた阿部を黙らせた後、廉はものすごい形相だった。しかし、理由はどうあれ、こうしてほんの一瞬だけ、廉とつながっている電話のバイブレータが泉の心を揺さぶっていた。
間違って携帯を開けてしまいそうな予感にとらわれる。
廉がその先にいる。
しかし、絶対に取れない。取ってはならない。
20回ほどコールして、電話が鳴らなくなった時、泉の心の中にぼんやりともっていた光がふっと消えてしまった。
それまで忘れていた涙がぽろぽろ零れ落ちた。
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