次のアリオンのレッスンの日、泉は講師室で、阿部と真紀が首になりそうだという噂を耳にした。
真紀はともかく、阿部がそうなることについて、他の講師たちは思いあたることがないので、なぜそんなことになっているのか不思議がっている。阿部はこの間のことが原因なのだろうか。泉は急に重たい気分になった。
実際、阿部のことはどうでも良かったが、問題は真紀だった。確かにこの間、阿部と別れた後、真紀はまたレッスンを休んだ。
けれども、真紀はここに就職するつもりだったのだ。親にもそう言ってあると聞いている。3年も留年して、まだ東京にいられるのは、就職がほぼ決まっていると聞いているからだ。
それがだめになったと知ったら…
泉はレッスンが終わったあと、たまたま廊下にいた鳴海をつかまえて、真紀のことを訊ねた。
「君が彼女をかばう気持ちもわからなくはないが、まぁ、今までいろいろあったしね…」
「そうですけど、この間はちゃんと休むって連絡もしてますし…」
「でも、もう2度もだろう?とにかく、これを決めたのは僕じゃない。廉が、森嶋部長がそうしろって…」
鳴海は会長の妹の息子だときいているので、廉のいとこにあたる。鳴海が廉と呼ぶのはそのせいなのだ。
「僕がどうしたって?」
泉は自分の後ろに廉が立っていたことに気づいて飛び上がらんばかりに驚いた。廉にこんなことを聞かれたくなかったし、頼みたくもない。
「ああ、廉。石井さんの件だよ。おまえがそうしろって言ったんだから、おまえから彼女に説明してやってくれ」
鳴海は廉に答えて、泉を廉に押し付けて行ってしまった。こんなことにまで口を挟まれて、鳴海は明らかに面白くない様子だった。泉は余計なことを言ってしまったかもしれないと後悔した。
「それで?どうして君が石井さんの弁護をするのか知らないが、話だけは聞こう。ここじゃなんだから、あっちで」
廉はそう言って奥の空き教室の方へすたすた歩いていった。ああ、まずい。どうして彼と…泉は失敗したと思いながら廉の後についていった。
もう9時を回っているので、レッスンしている教室はほとんどない。話をするなら別に廊下でも良いぐらいだったが、廉は敢えて一番奥の大きなレッスンルームに入っていった。
部屋の明かりをつけて、窓枠に腰かけ、腕組みをする廉は、どう見てもあまり機嫌が良いようには見えなかった。
「で?」
泉はそう問われて、廉を見た。
怒っている。明らかに。
心の中でもう忘れなければとずっと思いながら、そうすることができない。こんな形で、また話をしなければならないなんて……
そう思ったら、泉はそこから逃げ出したくなった。真紀のことを彼に頼んでどうなると言うのだ。私も真紀もただのアルバイトなのに。
「お願いがあります」
泉は単刀直入に話を切り出した。ぐずぐずしていても仕方がない、嫌なことは早くおしまいにしたかった。もうここまできてしまったのだから、言うだけは言ってみよう。
「真紀をやめさせないでほしいんです」
廉の目が鋭く光った。
「友人のことを思って言っているのか。それにしては、彼女は責任感がなさ過ぎるんじゃないか? 君はそう思うなら、彼女が休まないように手を打つべきだった」
腕組みしたまま話をしている廉は、よそよそしくて冷たい感じがする。
確かにその通りだ。泉はそう言われて返す言葉がなかった。やっぱりやめればよかった。
「それで…阿部が付き合っていたのは、石井さん? それとも君?」
廉の突然の問いに泉は言葉をなくした。
「君だとしたら、ずいぶん変な話だが…」
泉は頭をハンマーで殴られたような気がした。本当にそんなことを考えていたの? 私が、阿部先生と…?
「もう結構です。今の話はなかったことにしてください」
泉は絶望的な気分になり、きびすを返して部屋を出て行こうとした。
「おい、待て!」
ひどすぎる…そんなこと言うなんて。私のことをそんな風に考えてたの?
ふつふつと怒りが心の中に湧き起こり、泉は乱暴にレッスン室の扉を開けようとした。廉が泉の肩をぐいとつかんで部屋の外に出るのを止めたが、泉はその手を振り払おうとして暴れた。
「待てよ」
「触らないで!さわらないでよ……」
「騒ぐな。落ち着け」
廉がつかんだ手がどうしても振り払えない。泉の目に涙が浮かんだ。
廉に言われたことが悔しかった。そして胸が痛かった。
彼のすぐ近くにいることが耐えられない。彼と話していることが。彼に肩を捕まれていることが。彼に触れられていることが…。
「僕が望んでいることが何か、君は知ってるだろ?」
「知らないわ。馬鹿にされて怒ってる私が見たいってこと?」
「泉――」
廉は大きくため息をついて、壁際に泉を追い詰めた。
「いいか、泉。僕は合理的な人間だ。本当に彼女をやめさせたくないなら、僕のところへ戻って来い。取引ならいつでも応じる」
身体がしびれるようだ。泉は思った。
取引。彼の望む取引は自分が心の底で望んでいること……
本当は、できることならそうしたい。この強い手に身を任せて、あの時、廉の車の中で感じた幸せをもう一度味わいたい。
しかし、泉はその考えに自分で首を振った。それが出来ないことはわかっている。
彼の部屋で理恵の名前を聞いたとき。パーティで智香子と一緒のところを見たとき。自分がいたのに何も否定しなかったとき。泉はその時々の鋭い胸の痛みを思い出した。
彼が悪いのではない。私が耐えられないだけ。その先に起こるいろいろなことに、自分はきっと耐えられない。
ピアノのために安定した仕事も捨て、母親も田舎に置き去りにしてきたのに、一日の全てが彼への猜疑心で埋まっていくような状況を一体どうやって乗り越えていくというのだ。
廉は泉が首を振るのを見て、それ以上のことを言う代わりに強引に身体を引き寄せ、唇を重ねた。
泉は我に返っていた。なんとか抵抗しようとしていた。自分の手で廉の身体を遠ざけようとしたが、少しでもそれを感じると、廉はさらに強い力で泉を押さえつけた。
どうして、こんなことになってしまうのだろう。彼とはもう関わらないと決めたのだ。それなのに自分の心を試すようなことばかりおこる。
それとも、自分がこういう自体を招いてしまっているのだろうか?彼についてこなければ良かったのか。真紀のことなど放っておけばよかったのか。
泉は自分のふがいなさをどうすることもできず、頬に涙が落ちていくのを止められなかった。
泉が抵抗することをやめたのに気づいた廉は、ようやく体を離した。
泉は声もたてず、涙をぬぐいながら部屋から走り去った。
後味の悪いキスだ。愛する女と交わしたというのに。まるで悪いことをした気分だ。
廉は泉が走り去った後、自然に閉まった重い扉を見つめていた。
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