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 カデンツァ 第三章   


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有楽町第2開発地区の最も良い物件として売り出されたブルーアクアの跡地は入札の結果、蔵野楽器が手に入れた。蔵野楽器の提示した額は、アリオンが出した額よりすこし上回っていただけだった。

この土地をアリオンに先んじてどうしても手に入れたかった蔵野満はほくそえんだ。第2開発地区の少し外れたところに、もっと安い物件もあったのだが、やはり、「楽器屋通りとしていずれ名をはせることになるであろうこの地区の看板は蔵野楽器が背負いたい」という思いから、どうしてもここが欲しかったのだ。

森嶋廉の悔しそうな顔が目に浮かぶようだ。満はブルーアクアの跡地に立って、一人で悦に入った。アリオンは結局、この地区では土地を手に入れられないだろう。あるいはあの外れた残り物を買うかも知れないが。

ここに新しいビルを建て、あの東銀座のごちゃごちゃしたところからここに移る。そして老舗のアリオンを抜いて、東京で本当に1番の楽器店になるのだ。

あとの心配は資金繰りだけだ。満は先日、再開発の会合で会った榊原という男にもう一度会わなければと考えていた。

愛想良く近づいてきたその男は、アメリカの投資顧問会社からやってきたと言った。蔵野楽器のこと、アリオンのことを非常に良く調べていた。いくつかの銀行から、どちらに投資すべきか問い合わせが来ていると言うのだ。

蔵野楽器は既にベンチャー市場に上場しているが、ここ数年の設備投資のこともあり、正直、業績は上向きとは言えない状況である。一方でアリオンはレグノという親会社に甘えて今まで何もしてこなかった。拡大する傾向もない。しかし、ここにきてようやく本当に切れ者と噂の高い森嶋廉が会社に戻るらしいと、業界ではまことしやかにささやかれていた。

そのどちらもが有楽町のこの第2開発地区に目をつけている。

その榊原は、アリオンは老舗だがこのままでは先がないと思っていると言った。蔵野楽器に肩入れするように勧めたいということをにおわせた。その代わり、有楽町の土地を必ず手に入れ、新しい事業をはじめることを勧めた。その投資顧問会社に持ち株の5%を預けるように言った。そうしてくれれば、その5%を担保にして、銀行を紹介するという。

満はもちろん金が必要だった。アリオンが都内で閉店した後に入ったところで新規開業しているのに加えて、有楽町のこの土地で開業するためには、かなり無理をする必要があった。特に有楽町のこの土地は非常に高い買い物だった。

何としても、アリオンに追いつき、そして追い越したい。満は東銀座に戻って榊原に連絡を取った。



有楽町の土地を落札することが出来なかった廉は、次の手を打つ必要があった。負け惜しみではないが、実際、あの土地は本気で取りに行ったわけではない。

智香子から話を聞いたときには既に入札願いを出していたし、取り下げることもできたが、行きがかり上、そうしなかっただけだ。もし落札してしまっていたら、智香子が言っていた榊原何某かの件をちゃんと片付けて、今までの計画どおりやるつもりだった。しかし、そうはならなかった。

アリオンの落札価格はおそらく蔵野楽器に知れていただろう。あの提示額を見れば一目瞭然だ。廉は新しい物件の場所として、第2開発地区から少し離れたある場所に目をつけていた。

メインの場所から少し離れてはいるが、他よりかなり安いこの土地で、十分やっていけると踏んでいたからだ。もともとブルーアクアの跡地はこちらが本当に必要としている広さはなかった。それに比べればその新しい場所は、すこし駅から離れていることを除けば、値段も広さも十分だったし、変な土地のしがらみもない。

このことをアリオンの取締役会に諮る前に、廉にはやっておくことがあった。礼子のことである。

もう、これ以上待つことはできない。このままにしておくと、哲也もまた変なことに手を出しそうだった。廉はデイビッドが集めた背任の証拠とバーターで、礼子の辞任に賛成するよう哲也に伝えた。

「次の取締役会には辞任要求を出す」

廉は言った。

「またずいぶん強気だね」

まるで他人事のように哲也が言った。

「のんびりしてる場合か。おまえだって出るところに出たら、手が後ろに回るぞ」

哲也は少し微笑んだように見えた。あきらめきっている様子が廉には逆に気がかりだった。

「かまわないよ。辞任に賛成すればいいんだろ。僕もそうしなきゃって思ってた。アリオンにも社員がたくさんいるしね。で、次の社長は?」

「典弘さんにお願いしようと思ってる。親父とじいさんにはもう伝えてある」

「じいさんはなんて?」

哲也が気にするのもあたりまえだった。アリオンの社長が鳴海の人間に取って代わられるのだ。古い人間には一大事に違いない。

「もちろんいい顔はしなかったさ」