8月も終わりに近づき、夏の日差しも落ち着き始めた頃、来年のコンクールに出る生徒たちが大学に呼び出された。課題の進捗を確認するためである。
ピアノからは5人しか出ないので、小さい教室に出場予定の生徒と担当教諭が入り、順に演奏していった。
博久は2番目に呼ばれ、いつものことだが、無難に課題を弾いてみせた。担当教諭の町村も他の教師たちも、博久の出来には満足していた。
泉も一応ここに呼ばれてはいたが、弾いたのはピアノの課題ではなく、ピアノ譜で先に作成していく下書きの曲だった。
泉はこれまで、J以外の場所で自分の曲を披露したことは作曲の時間以外にはなく、大御所たちの前で非常に緊張していた。しかし、なんとか出来上がっている半分だけを弾き終えた。青山も町村もそれなりに感心しており、出来上がりを期待する講評があった。
その日、驚いたことに、問題になったのは理恵だった。
理恵は夏休みに入ってからほとんどピアノを弾いていない。母親とそのマネージャがいる家にいたくなかったのだ。そのため、理恵は休みに入ってから、頻繁に出歩いている。
大学の友人たちは優等生ばかりで、毎日というわけにもいかず、理恵と一緒にいつまでも遊ぶのは、必然的にデラロサに来ている別の大学の生徒たちか、あるいはデラロサによく出入りしている外国人たちだった。
時々押し付けられていたパーティはもう頼まれても出なかった。そこで必ず森嶋廉に会えるなら行っても良かったが、最近、彼の姿もほとんど見ない。
彼に会いたい。けれど、廉は一度は見合いで断られた相手であり、父母には自分がそんな気持ちを持っていることなど知られたくなかった。
父母に知られず、廉の連絡先を知る方法が一つだけある。泉と真紀。彼女たちはアリオンで働いている。
真紀はどうだかわからないが、この間の廉の態度からして、泉とは何かつながりがあるのだ。理恵にとっては、泉は面白くない存在だった。
ピアノも大して弾けないくせに、作曲でコンクールにでるなんて。
お金もないのに、こんな大学に入って、バイトばかりしてるくせに。おまけに私の知らない廉を知っている。
理恵はそんなむしゃくしゃした気持ちで泉の演奏を聞いていた。おまけに、いつも泉に厳しい青山も、今回の曲には特に何も言わなかった。それも面白くないことの一つだ。
そして理恵の番が来たのだが、練習していない課題を弾けるはずもなく、青山は怒り出してしまった。町村がなだめにかかったが、怒りはおさまらず、結局、理恵はその場を追い出されてしまった。
こんなことは今までなかった。
まるで出来損ないの生徒のように言われて、教室から追い出されたのだ。
それから、理恵は大学を出て夕方まで上野の町をふらふらした。知り合いのアメリカ人に声をかけられ、怪しげな店に一緒に入った。
そこでウイスキーを何杯か飲んで、良い気分になった後、デラロサに繰り出す。ここ最近のいつものパターンだ。ただ、ちょっといつもよりペースが早いが。
今日は水曜日なので、デラロサには南博久が出ている。
そうだ、いいことを思いついた。博久に泉を呼び出させよう。そしてそれから…
理恵は10時を回るころにはもうべろんべろんだった。足も腰も立たない。デラロサのソファから一歩も動けない状態だ。
博久が時々様子を見に来ていたが、様子を見に来たって、どうなるものでもない。一緒に店に来た外国人に、理恵にこれ以上酒を飲ませないよう、へたくそな英語で博久が文句を言うのがおかしかった。
12時を回って、理恵と一緒に来ていたアメリカ人たちは一人二人と帰っていった。いつもそうだ。支払は理恵がする。ただで飲めるから一緒に来ているのだ。
この日、理恵はもう目を開けていなかった。博久はデラロサの店長に理恵を追い出すように言われて理恵のところへ行った。
もうそろそろ閉店の時間で、客も少ないし、いつまでもいてもらっては困る。博久が理恵に帰るように言ったとき、理恵はようやく目をうっすら開けて、泉を呼べと言った。
「泉さん? 何のために?」
「呼ばなきゃ帰らない……」
「だから、何の用さ?」
「来てから話す…」
博久は、泉が今夜Jに出ているのを知っていた。部屋はこの近くだから、帰り道にちょっとよってもらえば良いのだが、泉に何の用があるというのだ。富田はもともと優等生だが、最近かなり危なげだ。
博久は迷いながら、泉に電話した。泉はちょうどJを出るところで、理恵の話に戸惑いながらも、帰りによると言って電話を切った。
全く始末の悪い女だ。泉は博久が帰れないと知って、デラロサに寄るといってくれた。本当ならこんな酔っ払いは店からたたき出すのだが、まさか女の子を一人、上野の繁華街に放り出すわけにもいかず、博久は怒りながら店のかたづけを続けた。
泉は最終電車に乗って、デラロサへやってきた。博久の姿を見て少し微笑んだ。仕事して、こんな時間に呼び出されて面白くないだろうに、よく出来た人間だな。博久は相変わらずきれいな泉を見ながら思った。
「あそこに」
博久が指したテーブルに理恵は顔を突っ伏して眠っていた。泉と博久がテーブルに行き、泉が「富田さん」と肩に手をかける。理恵は子供がむずかるように小さく声をあげて泉の姿を確認した。理恵が身体を起こして話せるようになるまで、泉はソファに座ってじっと待っていた。博久が氷の入ったグラスを持ってきて差し出す。
「――あなた……廉さんとどういう関係?」
冷たい水を口にして、多少ましに話せるようになった理恵が、突然泉に訊ねた。そばにいた博久も驚いていたが、泉も理恵がどうしてそんなことを訊くのか驚きを隠せなかった。
「どういう関係って言われても…ただのアルバイトとその店の人…だけど?」
「へぇ。その割には廉さんはずいぶんあなたのこと気にしてるのねぇ」
理恵の言葉にはとげがある。廉は見合いは断ったと言っていたが、たぶんそれだけでは終わっていないのだろう。そうでなければ、この間のように、廉がここまで迎えにくるようなことにはならないはずだ。
しかし、泉はこれは自分にはもう関係のないことだと、心の中で自分に言い聞かせた。
「お話はそれだけ? だったら…」
「まだだめ。廉さんを呼んでよ。あなたの前で廉さんが同じこと言うかしら」
泉は理恵が自分たちのことを本当に疑っていることを知った。けれど、廉とは会いたくない。
「森嶋さんを呼ぶのはあなたの自由だけど、私はもう帰らせてもらうわ。お話することもないし」
「電話してよ!」
「自分ですればいいじゃないの」
「番号を知らないのよ」
泉は立ち上がろうとしたソファにまた座ってかばんの中から自分の電話を取り出した。そして、廉の電話番号を表示させ、理恵に渡した。
理恵は自分の携帯にその番号を入力したが、泉に携帯を返して、「やっぱりあなたが電話してよ」と言った。
「かけたいのはあなたでしょ?」
「あなたがかけて。廉さんを呼んでよ! 来てくれるまで帰らないから!」
店内に残っていた少ない客たちが皆いっせいに理恵の方を向いた。泉は博久の方を向いたが、彼も困っているようだった。それほど親しい仲でもないが、店で騒ぎを起こされては困るだろう。
泉は仕方なく発信ボタンを押した。
|