「森嶋です」
3回目のコールで廉が出た。心臓が音をたてた。
「…吉野です…」
この間、あんなことがあったばかりなのに、廉は一体どう思うだろう。泉が言葉を選んでいると、廉が口を開いた。
「…どうした?」
優しい声。胸が痛い。
「今、デラロサにいるんですけど、富田さんが…森嶋さんに、ここに来てほしいと言っています」
電話の向こうで、廉が困っている様子がわかった。
「どうして僕が?」
「それはわかりません」
「彼女はそこにいるの?」
「はい」
「ちょっと変わって」
泉は電話を理恵に渡した。
理恵は廉と少し話をしていたが、「嫌よ。一人でなんて帰れない。迎えにきて」と涙声で廉に言った。
そのうち、理恵は本当に泣き出してしまい、「何よ!」と言って泉の電話を放り投げてしまった。博久がそれを拾って泉に手渡した。電話はまだつながっている。
「もしもし…もしもし…?」
廉の声がした。
「すみません。富田さん、大分酔ってるんです。おうちに帰してあげたいけど、私、彼女の家を知らないので…」
泉が答えた。廉はまた少し間をおいて、
「これからそっちに行く。僕が行くまで、君もそこにいてくれ」
と言った。泉はとっさに廉に会うべきではないと思い、「いえ、私はもうこれで…」と言いかけたが、廉がそれを制した。
「いや、君もそこにいろ。じゃなきゃ、迎えになんていかない」
泉は電話を切って理恵の向かいに座ったが、その後段々腹が立ってきた。どうして、こんなことに巻き込まれなきゃいけないんだろう。博久が気を利かせて持って来てくれたジンジャーエールを口にしながら、泉はやはり帰ろうと思った。
廉が来るのだし、自分がここにいても何もすることはない。泉がそう思って席を立とうとすると、理恵が泉の服のすそを握って、またソファに座らせた。
「だめ。帰らせないから。廉さんが来るまで」
理恵はなみだ目で言った。彼女も廉が好きなのだ。いつお見合いをしたのか知らないが、彼女は廉をずっと追い続けている。そしてどういうわけか、その理由が私だということを察したのだ。
彼女なら自分と違って廉とも何も問題なく付き合える。歳は若いかもしれないが、彼女なら誰も反対などしない。けれど…
普段から泉に対して軽蔑した様子を隠そうとしない理恵だったが、今日は少しかわいそうに思えた。
人の心は思うようにならないものだわ……
泉は理恵の言う通り、しばらく隣に座っていたが、理恵が眠ってしまったのを見計らって席を立った。
「博久くん。森嶋さんがもうすぐ迎えに来るから、私、悪いけどもう帰らせてもらうわね」
泉は席を立ってかたづけをしている博久をつかまえて言った。
「ああ。ごめんね。仕事で疲れてるのに呼び出して。気をつけて帰って」
博久は快く泉を送り出してくれた。廉はきっとまた怒るだろう。今日、久しぶりに電話で聞いた優しい廉の声を思い出して、泉はつらくなった。
私が自分のことで彼を頼れば、彼は喜んで手を貸してくれるだろう。自分たちの間に何の障害もなければ、本当に恋人になって、もっと普通にいろいろ甘えてみたかった。
泉は切ない思いで涙が出そうになるのをこらえながら自分の部屋へ戻った。
しばらくして、廉がデラロサにやってきた。来るなり博久に「泉は?」と訊ねたが、「帰りました」と言う答えに、がっかりした様子がみてとれた。
理恵はフロアのテーブルの上でぐっすり眠っている。博久は廉をそこまで案内した。
この人が来るときはいつも誰かのお引取りだな。博久は心の中で思った。
「いつからいたの?」
廉が博久に訊ねた。
「僕が5時ごろ店に来たときはもういました。外人さんたちと一緒だったけどね。この人、最近おかしいよ。飲みすぎだし」
今日の大学での理恵の態度もちょっとおかしかった。あの優等生の理恵が、あんなふうに練習もせず、青山に叱られるなんて、ありえない話だ。
「理恵さん。起きて」
廉が何度か声をかけると、理恵は突然目を開けて廉に抱きついた。
「廉さん…」
「帰ろう。もう閉店だよ」
廉は腕で理恵を押し返すようにしてふらふらしている理恵をソファにもどした。
「嫌よ。帰りたくない。廉さんの家に泊めて」
「それはできない。が、君の家まで送ってく」
廉はそう言って、博久には「迷惑かけて悪かった」と一言告げ、理恵を担ぐようにデラロサから出て行った。
あの二人、一体どういう関係なんだろう? それに泉さん…
博久は泉が廉と何かあるとは思っていた。それも、何かただならない関係だ。博久は泉のことを姉のように慕っているので、泉が廉とどういう関係なのか非常に気になる。
モップのほこりを払いながら、博久は二人の後姿を見送った。
あの博久とかいう男、自分と泉がどういう関係だと思っただろう。
廉は捕まえたタクシーの後部座席の奥に理恵を座らせて、そんなことを考えていた。
理恵は廉にしなだれかかったままだ。酔っているのか、そうでないのかよくわからなかったが、理恵は車の中で「どうして、私じゃだめなの…」と言ったり、「家に泊めてよ…」と言うのを繰り返している。
理恵の家についた時、廉はまた理恵を起こして車を降りた。理恵は自分の家に着いたのを理解すると、ものすごく嫌な顔をしたが、酔っているのでそこから逃げ出そうとはしなかった。
廉は車に待っているように言い、理恵を支えながら玄関の階段を上がっていった。
階段を上がりきったところで、玄関の扉が開いた。今まで暗い中にいたので、明かりが煌々として目が痛い。
「まぁ、どうもすみません」
どう見ても普通の主婦ではない女性と、廉と同年代の男性が玄関ホールで待ち構えており、理恵を玄関から引きずるようにしてあげた。女性は理恵の母親だろうか。顔が似ている。
「こんばんは」
廉の挨拶はそっけなかった。頭に来ているからだ。廉はいつまでも他人を巻き込んで平気なこの親が許せなかった。
「理恵さんをここに連れてくるのはもう最後です。僕を呼び出されても困りますから。付き合ってる女性もいるので…」
廉がそう言ったのを理恵は聞き逃さなかった。
「誰? 誰のことよ?」それまでぐったりしていたのに起き上がって叫んだ。
「君も良く知ってる泉さんだよ」
廉は理恵に笑ってみせた。理恵がどう思おうが知るものか。泉に会えなかった腹いせもあって、廉はさらっと言ってのけた。
「理恵さんにもう少し、気を配ってあげてください。たぶん、寂しいんでしょう」
玄関にいた大人たちはあっけに取られていた。廉は踵をかえしてそのまま階段をおり、待たせていたタクシーに乗った。
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