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 カデンツァ 第三章   


                        -12-


その週末、真紀には厄介なことが立て続けに起こった。富山の父親から電話があり、見合いの話があるから帰って来いと言う。

突然の話に真紀は、「まだ結婚する気などない」と言い放ったのだが、父親に留年のことを責められて、喧嘩になってしまった。父親は激昂し、近いうちに東京に迎えに行くからと言って電話を切った。

父親が出てくるなんて、とんでもないことだ。この生活を見られたら、引きずって連れて行かれるかも知れない…

そんな暗い気分を振り払うために、買い物に出かけようとしたその時、それは届いた。

内容証明つきの郵便物だ。新しいクレジットカードが来るとき以外、そんなものを受け取った事はない。真紀はその大きな封筒に書かれた阿部里美という名前を見ながら、封を切った。

「要求書?」

真紀は封筒に一枚だけ入ったその紙を取り出した。


 貴殿は昨年夏頃から私の夫、譲と度々、密会をくり返し、不倫の関係を続けています。このため、平穏で円満な夫婦関係の維持が困難となっております。

 よって、今後、譲と会うことのないよう強く要求すると共に、貴殿からの不貞行為により精神的苦痛を受けたことに関して慰謝料200万円を請求します。

 もし、上記要求に応じないときは直ちに訴えを提起することと致しますのでその旨御承知おき下さい。


これは……!

真紀は震えだした。差出人は阿部里美。阿部…阿部先生の奥さん…知っていたのか……!



ああ。どうしよう。どうしよう…

真紀は思わず泉の携帯の番号をダイアルしていた。今日は日曜日だから部屋にいるはず。


突然かかってきた電話に泉は驚いた。

「どうしたの?急に…」

「ごめん。ちょっと話があるの。今いい?」

「どうぞ」

泉はお茶を入れようとしていて、片手でやかんに水を入れながら訊ねた。

真紀は少しためらうように「実は阿部先生のことなの」と答えた。

この間、自分から別れを告げたと言っていたのに、またぶり返したのだろうか?泉は手を止めた。

「阿部先生?」

「そう。というか、さっき、要求書とかいうのが来たの」

「要求書?何の?」

泉はそれを聞いて顔をしかめた。嫌な予感がする。

「阿部先生の奥さんからなの。慰謝料払わないと訴えるって。200万よ!」

やかんを火にかけて、泉は部屋の中にもどった。

「ええ!?」

「阿部先生とは別れたのに…ああ、泉。私どうしよう。どうしたらいい?」

どうしようと言われても…泉は閉口した。

「脅すつもりじゃないけど…あなたは慰謝料を請求されても仕方がないのよ。もちろん、逆に阿部先生を訴えるってこともできるけど…」

「そんなことしないわ。だって、お互いわかってやってたことだもの」

それは自覚しているのか。しかしそれならなおさら始末に悪い。

「うちの両親にこんなことが知れたら、私、富山に連れ戻されるわ。今だって、来年必ず卒業するからって許してもらってるのに」

真紀は既に3年留年している。富山の実家はスーパーを何件かやっている裕福な家だ。真紀の両親は真紀が東京で好き勝手しているのは知っていたが、来年は必ず卒業すると言う約束で、まだ東京に下宿させてもらっているのだ。


「阿部先生の奥さんは一体何が目的なのかしらね?あなたと阿部先生が別れたってことは知ってるの?」

「さぁ。でも200万なんて大金、私どうにもできない」

「困ったわね…」

不倫の慰謝料にしてはまぁ妥当な金額だろうか。しかし当然学生には大金だ。

「真紀…残念だけど、たぶん、どうにもならないわ。阿部先生の奥さんがどういうつもりか、まだ良くわからないから、なんとも言いようがない。本当に訴えられたら、弁護士も立てなきゃなんないと思うけど、普通は調停するのが先だから、すぐにそこまで行かないわ。あなたは成人しているから、ご両親に知れるかどうかも、向こう次第。阿部先生の奥さんともう一度話してみれば? どっちにしたって、あなたと阿部先生はもう別れてるんだから、後は奥さんがどう納得するかだけの話でしょ? だから、こっちの条件も言ってみれば良いと思う」

「できない。私、できないわ。どうしてなの? 阿部先生のことはもうやめたのよ。それなのに、父も出てくるって言うし……」

真紀は電話の向こうで泣き出してしまった。

「お父さんって、富山の? どうして急に…」


「見合いさせるって…」

今までも何度かこんなことはあった。真紀の父親は大学を3年も留年したことで、真紀のことを全く信用しなくなっていた。ここ1年ばかりは、富山になんとかして連れ戻そうと、てぐすねをひいて待っているのだと真紀はずっと言っていた。

「真紀、しっかりして」

「お願い。私の代わりに電話して。なんとかして。お願い…」

「何とかって……」

「泉、お願い…」

取りすがる真紀に、泉は仕方なく阿部の妻に電話することにした。

「でも、こんなことに友達なんかが入るのは、本当は良くないのよ。逆手に取られる場合もあるわ。それでもいいの?」

「両親に言わないでって言ってくれるだけでいいの。その条件だけ聞いてくれれば」

「わかったわ」

泉は真紀の言うとおり、真紀の両親にこのことを言わないで欲しいとだけ、阿部の妻に伝えることにした。それなら特に大きな問題はないはずだ。

真紀自身がこんなに取り乱してしまっていては話にならないし、それにいくら自業自得だからと言って、こんな時期に真紀が富山に連れて帰られてしまうのはあまりにもかわいそうだった。

留年しているとはいえ、真紀もピアノが好きで、音楽が好きでここにいる。泉は自分が同じように音楽ができなかった時期のことを考えると、真紀にも音楽を途中でやめさせられて、富山に連れていかれるようなことには出来ればなってほしくない。



翌日、泉は朝9時を回ったところで、阿部の妻に電話をした。里美は泉が真紀の代わりに電話をしてきたことに驚いていた。

要件を訊かれて、真紀が、両親にこのことを言わないで欲しいと言っていると告げると、里美は「きちんと慰謝料を払ってくれるなら彼女の両親は関係ない」と言った。

また泉が「私たちは学生だから、そんな大金はすぐには用意できない」というと、「ちゃんと払えないならご両親に用意してもらえば」と里美は笑った。

この人は楽しんでいるのだ。真紀がどうにも出来ないことを知っていながら。


泉はこれはどうにも出来ないと思って電話を切った。やはり誰かしかるべき人に入ってもらって、月割りでも何でも慰謝料を払っていけるように算段した方がよさそうだ。

けれど、両親に言う言わないの話は、里美が握っている。あの里美の様子からして、第3者に入ってもらったからといって、これが防げるわけではないような気がした。泉はため息をついた。