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 カデンツァ 第二章   


                        -4-


翌日、泉は地下鉄を乗り継いで三軒茶屋に向かった。

北口をあがって廉の言った病院の前に出ると、廉は既にそこで待っていた。着心地の良さそうな綿のシャツにベージュのパンツ。まるで男性ファッション誌に出てきそうなモデルのようだ。

昨日もそう思ったのだが、廉は意外と胸が厚い。背が高くてすらっとしているのに、いつもダークスーツを着ているせいで余計にやせて見えているが、実はしっかり筋肉がついている。たぶん何かスポーツをやっていたのだ。それに比べて自分は…

泉は自分の格好を振り返った。今日着てきたオフホワイトのワンピースは、自分がまだ働いていた頃、最後に買ったものだ。

足元はそのとき一緒に買った5センチヒールの白いサンダル。髪は少しカールして上げ、今自分にできる精一杯のおしゃれをしてきた。

けど、自分にできるのはここまで。この次は着ていくものが…

そこまで考えて泉は首を振った。

この次? この次なんて何も決まってないわよ。ばかね。


泉が小走りに廉に近づくのを廉は笑って見つめていた。すぐ傍まで来ても廉はそのまま口をきかなかった。

「こんばんは」

泉に声をかけられ、廉ははっとしたようだった。

「待ちました?」

泉が訊ねているのに返事がない。どうして?

「廉さん?」

泉が訊き直すと、廉はようやく口を開いた。

「ちょっと…見とれてた。反則だぞ。そんなにきれいにしてくるなんて。僕は普段着なのに」

廉は自分の足を少し上げて、靴下も履かずにサンダルばきなのを見せた。

「じゃあ、あなたを誘惑できそう?」

泉は笑ってスカートをふわりとさせてくるりと回ってみせた。本当に?本当にそう思ったの?

「全く…そんなこと言うのは、僕の前だけにしてくれよ」

廉は小さくため息をついたようだったが、ほんの一瞬の間に泉の手をつかんだ。

泉はびっくりして後ずさりしそうになった。しかし廉はその手を取って歩き出した。


「ごめん。引きずってた?」

しばらく歩いて、ふと廉が振り返った。よく見るとなんてハンサム。胸がどきどきする。

「いいえ、大丈夫」

首を振った泉を廉が見つめている。泉は廉に握られた手を強く握り返した。




廉が連れて行った店は、三軒茶屋から歩いて10分ほどのピンクペッパーというライブハウスだった。

今日のステージはBeats12だと店の前の看板に張ってあった。泉も聞いたことがある、最近売り出し中のビッグバンドだ。

ステージは19時からなので、まだ大分時間がある。店にはまだそれほど人もいなかったが、廉が予約を入れていたのか、二人は前の方の席に案内された。

「かなりうるさいけど、大丈夫?」

「ええ、もちろん」

泉が店を見回していると、店員がやってきた。廉はもうすっかり慣れていて、ほとんどメニューも見ずに何品かを頼んだ。

「よく来られるんですか? ここ」

「うん。昔から出入りしてるから。まぁ、地元だしね」

泉の問いに廉が答えていたとき、ステージの袖から、どう考えてもこれから演奏するのだと思われるスーツ姿の男が現れて、廉を見て目を丸くした。

「森嶋さん!」

その彼は譜面の束を手にして、うれしそうにステージから二人の席へやってきた。

「お久しぶりです」

「みんな元気?」

廉が訊ねると、彼は満面の笑みをたたえた。みんなって、廉さんはこの人たちのお友達?

「ええ。この間はありがとうございました。近いうちに佳樹とお礼にあがろうと言ってたんです」

「いや、僕は何も…」

廉は謙遜しているようなそぶりだ。

「サミーズの秋山さんに大分口ぞえしてくださったんでしょう? 僕は正直言って、今回はほとんど諦めかけてました」

「諦める必要なんてないよ。第一、まだインディーズだろ。早くその先を考えとかなきゃな。レコーディングに入ったらまた、陣中見舞いに行くよ」

「森嶋さんは気が早いですねぇ。おっと、時間がないので、またあとで」

彼はぺこりと頭を下げて、ステージに戻り、ドラムセットの譜面台に譜面を置いて袖に入った。