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 カデンツァ 第二章   


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「廉さん、今日演奏される方とお知り合い?」

何のことかあまりよく判らなかったが、おそらく廉がこのバンドの何かを助けたのだ。泉が知っている廉は、外資のコンサル会社から来た優秀な経営コンサルタントということだけだ。

彼自身がピアノを弾いていたことからすると、音楽にはそれなりに造詣があるのだろうとは思っていた。けれど、口ぞえって…

「うん。結構長い付き合いだよ。彼らは高校生の頃からやってるんだ」

「その頃からご存知だったんですか?」

「初めて演奏を聴いたのは僕がこっちで大学に行ってた時で、彼らが僕の高校の後輩だって知って驚いた。だって、大学の学祭のバンドコンテストに乗り込んできたんだから。もうずいぶん昔のことだけど」

廉はその昔を思い出してくすっと笑った。

「昔は本当に12人だったんだけどなぁ…」

運ばれてきたグラスを泉のグラスにカチンとやって、廉はビールを口にした。「あーうまい」

「今は違うんですか?」

泉が聞くと、廉はフフンと笑ってソファに深く座りなおした。

「一人だけ、海外で勝負してるのがいる。たまに帰ってくるんだけどね」

廉はそう言って、何かを考えながら泉をじっと見ていた。泉は首をかしげて廉を見たが、廉は続けて運ばれてきたアンチョビのピザを泉に薦めた。


ステージが始まった。狭い舞台上に11人。泉はデラロサなどでアンプを通した大きい音には慣れていたが、こんなに間近で金管を聞くのは久しぶりだ。

Beats12の最初の演目は「A列車で行こう」だった。そのあとオリジナルらしき曲が2曲続いたあと、ベーシストがマイクを握った。

泉はさっき挨拶に来たドラマーがバンドマスターだと思っていたが、どうやら違っていたらしい。

「こんばんは。Beats12バンドマスターの高橋佳樹です」

ベーシストが言った。「けいじゅー」と黄色い声が上がる。なかなかいい男だ。フレームを抑える長い指がかっこいい。

「はじめの曲はご存知『A列車で行こう』でした。そして、『サイドウォーク』。これは僕が書きました。次が『ナイト・イン・ビエンチャン』。ラッパの関くんが、先月、彼女との婚前旅行中に彼女に怒られながら書きました。関くん、それで君は彼女のお父さんに了解いただいたの?」

「彼女のお母さんにささげる曲も書けって言われた」

関が答えると、客がどっと笑った。

「えーと。実はすごいお知らせがあります。僕たちは、今度ようやくインディーズですがCDを出すことが決まりました。皆さんのおかげです。ありがとうございます」

客席から、またどよめきと拍手が起こった。さっき「口ぞえ」とか言っていたのはこのことだったのか…

泉が廉を見ると、廉はちょっと微笑んで泉の手を握った。そしてステージは次の曲に移った。

Beats12の演奏は、まるで深夜の首都高を走り抜けるようなドライブ感がある。たまにスタンダードも入れてあるのだが、ほとんどオリジナルで、2時間ばかりを観客と一緒に駆け抜ける。

ステージが終わると、泉は自分が演奏していたわけではないのに、どっと疲れたような気がしていた。

最後にバンドマスターがもう一度メンバー紹介をしたが、その時、12人目が近々、また帰ってきますというようなことを言った。

12人目。廉にしても、このバンドマスターにしても、どうしてはっきり言わないんだろう?出るか出ないか判らない人なの?

泉は廉を見たが、また微笑んだだけだった。


演奏が終わって廉が「そろそろ出ようか」と言ったとき、Beats12のバンドマスター高橋が席にやってきた。

「こんばんは。今日は、来ていただいてどうもありがとうございました」

「デビューおめでとう」

廉は高橋に手を差し出した。

「ありがとうございます。サミーズの件、本当にありがとうございました」

差し出された手を握り返しながら高橋が言う。

やっぱりそうだった。サミーズというのは、ジャズ系のインディーズレーベルで、メジャーデビューをする前のアーティストが登竜門のようにしているところだ。

コンテンポラリーはあまり知らない泉だったが、それでも今はやりのプレイヤーたちがデビュー前にそこから何枚かを出しているのを聞いて知っていた。

「ああ、いや。あれはたいしたことじゃないんだよ。それより、綾子さんの件は何か情報もらった?」

「彼女のメールの感じだと、契約上は特に問題なさそうです。向こうのレコード会社とは完全に専属契約というわけではないらしいんです。特にクラシック以外の部分でって話なら、日本の分は日本でやればって感じみたいですよ。どっちにしてもエージェントを通してになるみたいですけど」

「そうか。日本法人もあるんで気にしてたんだが。そういうことなら、うちも話がしやすいよ」

「何か画策してるんですね?」

高橋がにやっと笑った。

「そう。君にもいずれ話をするから。その時に協力してもらえるとありがたい」

廉は高橋の肩をたたいた。

「廉さんに嫌とはいえないなぁ」

高橋はそう言いながら、フロアを出る廉と泉を見送った。


「さて、この後だけど…」

店を出ると、廉が泉の手を引き寄せた。

「キース・ジャレットを聴きにいかない?」

「キース・ジャレット?」

廉は泉の手を引いて、三軒茶屋の町を何も言わずに歩いた。ここに初めにやってきた時のように、ついていくのが大変なことは全くなかった。

ただ、廉が押し黙ったままなので、泉も口を開いてはいけないような気がして何も言わずにいる。

つながれた手の温かみだけが泉の頼りだった。