10分ほど歩いて、着いたところは住宅街の中のあまり背の高くないマンションだった。
そこは廉の部屋だった。泉も、もしかして、そうかもしれないとは思っていた。自分の部屋に連れて行くつもりではと…
廉は玄関のオートロックを暗証番号ではずしてドアを開けた。エレベータで3階を押した廉は、振り返って泉を見たが、泉は廉の顔がまともに見られずうつむいていた。
エレベータのドアが開くと、廉はまた泉の手を引いてずんずん廊下の奥へ歩いた。ドアからドアの幅が大きい。
廉は一番奥の部屋のドアにキーを挿してドアを開けた。
「どうぞ」
廉がドアを抑えて泉を中に入れた。中に入ると、パタンとドアが閉まった。
その音にはっとした泉は、廉に後ろから見られているのを感じてうろたえた。これからどういうことに…
廉が泉の脇を抜けて廊下に上がり、スリッパを出した。泉はなんだか恐る恐るサンダルを脱いでそれに足を入れた。
その趣味のいい廊下だけ見ても、ここがすごい高級マンションなのだということはわかる。本当にお金持ちなのだ。廉は泉の様子を見ながら、先に歩いてリビングに案内した。
ダイニングをかねたその部屋は、まるでホテルのスイートのようだった。泉は高そうなアルコールのたくさん入った高そうなサイドボードの上にある鏡で自分の姿を見た。
普段着でなくて良かった…そんな格好でここへ来てたら、きっとすごく惨めだったに違いない。
「コーヒーでいい?」
「はい」
ダイニングの先にキッチンがある。廉はダイニングを横切るのにオーディオプレーヤーのリモコンをつかんでスイッチを入れた。本当にキース・ジャレットだ。
「そこに座ってて」
廉は生成りの大きなクッションが乗った同色のソファを指して、キッチンに入っていった。
落ち着かない。
泉はリビングを見回した。
部屋は間接照明で全体的に暗い中に、オーディオプレーヤーの明かりがぼうっとついている。プレーヤーの横にCDラックが置いてあり、図書館の雑誌入れのようにラックの表に何枚かCDがディスプレイされていた。
インテリア雑誌のような部屋……
泉は立ち上がってラックのところまで行き、そこに置かれているCDを手に取った。ジャズのCDがほとんどだが、そのすぐ脇にパールマンのバッハの無伴奏ソナタがあった。
それにニコライ・カプーxxx?カプースチン…?ああ、これ。
この間、誰かが弾いてるのを聞いたっけ。すごくきれいな曲だった。譜面があったら見てみたかった。
「あ。しまった。ミルクがない」
廉がキッチンから、泉のところにやってきた。
「ちょっと下に買いに…ああ、それ。知ってる?」
泉が手に取ったCDを見て廉が訊ねた。
「いえ、1回しか聴いたことないんですけど。きれいな曲作る人ですよね。でも、譜面もないし…」
「多分、近いうちに手に入るようになるよ。このあいだ、チャイコンで優勝した彼女、ほら誰だっけ」
「三田園さん?」
「そうそう。あの人、夜のニュース番組でこれの何かを弾くって言ってたから」
泉は廉を見上げた。
この人、一体どうしてそんなこと知ってるのかしら?
泉はCDを戻そうとして、そばにあった雑誌のラックをひっくり返してしまった。急いで布製のラックを立てなおそうとしたが、廉が駆け寄って散らばった雑誌を拾い集めた。
「すみません」
泉が赤くなりながら言うと、廉は雑誌を元にもどして泉の手をふと取った。泉は驚いてうつむきながら言った。
「あの、ミルクはいいです。別に、なくても…お砂糖もいりません。でも、廉さんがいるなら、私が買ってきます」
廉は泉の手をとっていとおしげに両方の手の平で包み、下を向いた泉を見つめていた。
「僕は必要ない。いつもブラックだから。君もそうならよかった。ミルクを買い置きしておかなくて済むから」
それは、これからも私がここに来るということ?泉は耳まで赤くなった。廉は泉の様子をじっと見ていたが、
「どうも…この部屋よりは向こうの方がいいかもしれないな」と独り言のように言った。
廉はリビングの奥にある重そうな扉を開けた。
泉が手招きされて入った部屋は、音楽室そのものだった。
壁の一面は天井から床までほとんどCDやDVDで埋め尽くされている。部屋には、ざっと見ただけで奥にドラムセット、CDラックの対面の壁に向けて小さいがグランドピアノが1台、キーボードが1台、フェンダーとギブソンのギターがラックに数本、ベースギターも2本ほどあり、それらのアンプやシーケンサをつないでいるコンピュータまで置かれている。
これじゃまるで小さなスタジオだわ。高田の研究室の倍はある。
「ここは…このお部屋、防音なんですか?」
泉は驚きのあまり目を見張った。個人でこんなにするなんて…
「このマンションは基本的に防音されてるし、この部屋だけ特別の防音もかけてる。夜中にドラムをたたいても全く聞こえないようにしてもらったんだ」
ため息が出るようないい環境。うらやましい。次はいつピアノ線が切れるか心配してばかりいる自分とは大違いだ。
「そろそろ入ったかな。勝手にやっててくれていいよ。コーヒー持ってくる」
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