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 カデンツァ 第二章   


                        -7-


コーヒーマシンのポットに落ちたコーヒーをマグカップについで、廉が持ってきた時、泉はグランドピアノの前に座って、ベートーヴェンを弾いていた。

隣の部屋のCDの音は扉を閉めていると全く聞こえない。泉はピアノを前にしてすぐ自分の世界に入ってしまった。


廉はピアノの譜面台の脇に泉のカップを置いて、立ったまま一口飲んだ。

黙って泉のピアノを聞いていたが、しばらくして自分のカップを壁際のサイドテーブルに置いた。そしてピアノを弾いている泉を後ろからそっと抱いた。

泉は驚いて手を止めてしまった。廉が耳元で「続けて」とささやく。

泉を抱いたままの姿勢でいた廉は、しばらくすると泉の上げてきた髪であらわになったうなじに口づけした。

背中に電気が走ったような気がして、泉はびくっと震えた。もうこれ以上弾けない…



廉はピアノの長いすに反対側から座り、泉の手をとって、自分の方へ身体を向けさせた。

「私、そろそろ帰ります。明日も…」

なんとか口を開いた泉に、廉は人差し指を立てて黙らせた。

「僕たちは高校生じゃない。君はそんなに早く家に帰りたいの?」

「そうじゃありませんけど。でも…」

「――泉」

廉は泉を自分の方へ引き寄せて抱きしめた。泉はこれから何が起こるのか不安で身体がかちかちになった。それを感じたのか、廉は抱いた腕を緩めて泉の顔を見た。

そうして廉は泉の唇を奪った。

頭に血が昇ってる。心臓の音が聞こえてしまいそう……


泉は廉にキスされている間、息ができなくてぼうっとしていた。自分が何かできる余地などなかった

なんだか目が回ってきた。

廉の片手は泉の頭を支えており、もう片方の手は肩をつかんでいた。廉は激しく泉を求め、泉はただされるがままだった。

このままもしかして…肩をつかんでいた廉の手が自分の胸の上に降りてきた。

ああ…どうしよう……

その大きな掌が泉の胸をつかんだとき、泉は驚いて廉の手をよけるように抵抗した。しかし、廉はやめようとはしなかった。

胸に触られることには抵抗していたが、キスも止む気配はなかった。

ああ…だめ。頭がおかしくなりそう。

泉はたまらなくなって、廉の腕の中でもがくようにして廉から逃れた。



気まずい雰囲気だ。泉は自分を何とか取り戻すように下を向いて深呼吸した。

どうしよう? こうなることがわかっていて着いてきたのだろうと、彼は考えているだろう。きっとそうだ。

心臓のどきどきが止まらない…泉はゆっくり呼吸しながら、今起こったことがどういうことか考えていた。

廉はどう思っているのだろう。あんなことで、子供みたいに慌てて。

「泉…」

廉が小さくため息をついて立ち上がり、泉を立たせた。

「送っていこう」



今日、ピンクペッパーに行く前は、廉は泉の手を引いていたのに、駐車場に行くときはそうしなかった。

車の中でも二人とも何も話さなかった。廉は怒っているのだ。

どうしよう…どうしよう……彼を怒らせた。

こんなことで抵抗するなんて、やってられないと思っただろうか。たぶんそうだ…

ああ、馬鹿みたい。どうしてあんなにあわてちゃったんだろう。私はその先に進んでみたかったはずなのに…