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 カデンツァ 第三章   


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あの日からしばらく、廉から電話がない。あんまり頑固だから愛想が尽きてしまったのだろうか。このまま会わずに過ごしていけば、時間はかかっても忘れられるだろう。泉はそのためにもアリオンを早くやめる必要があった。

次にアリオンに行った時、泉は鳴海をつかまえて、もう一度アリオンをやめるという話をした。鳴海は新しい仕事もあるし、学校を卒業してもここの社員になるというチャンスもあるのにと言って引止めにかかったが、泉の決心は固かった。

鳴海はしばらく考えて、とても残念そうに、「じゃあ、引継ぎの打合せをしなくちゃね」と言って席を立った。

鳴海との話を終えて、泉がいったん講師室に戻ろうとしていた時、ロビーで鳴海が阿部の妻につかまっているのが目に入った。

「お願いです。阿部をやめさせないでください」

阿部の妻は子供を抱えたまま泣きそうな声で鳴海に頼んでいた。鳴海は他の客たちがいる手前、むげに帰らせるわけにもいかず、今、泉と話をしていたレッスン室に阿部の妻を連れて行った。

こんなところにまで来るなんて…この間のことが原因?やはりやめさせることになったのだろうか。

泉は真紀にあんな書類を送ってきた強気の女性が、恥も外聞もなくここまでやってきたことに驚いていた。お金が必要なのか。アリオンには阿部と真紀のことを知っている人間はいないはず。廉には疑われているかもしれないが…ということは、やはりこの間のことが…

泉は落ち着かない気分でスタッフルームに戻った。


その日のレッスンの最後は小澤だった。驚いたことに、彼はインベンションはまだ2曲くらいしか進んでいないが、「ワルツ・フォー・デヴィ」をあと1ページにしてきた。これだと本当に秋までに曲が仕上がりそうだ。

泉のところはクラスが小さいので、発表会のようなものは、他のクラスと合同でやることが多かったが、それにもこの曲で出られそうだ。自分はそれを見られそうにないけれど…

小澤が驚くべきことを泉に言ったのは、泉がそんなことを考えていたときだった。


「先生。僕はここをやめようと思っています」


小澤はいつもと同じ穏やかな顔だった。

「ええ??」

泉は驚いて二の句が継げなかった。

「実は、まだ誰にも話していませんが、僕は本当は蔵野楽器の人間です。蔵野楽器が有楽町方面に新しく出店するので、新しい講師のスカウトをするためにここに入ったんです」

泉は自分の頭がくらくらするのを感じた。小澤が蔵野楽器の人間?それに有楽町店?アリオンがこれから出店しようとしている有楽町に?

「先生はまだ学生さんですよね?でも、僕はこのA店の中で先生に一番良い評価をつけました。先生としての評価以上に、音楽的才能を見込んでのことです。蔵野楽器の有楽町店は会社帰りのOLやサラリーマンを対象にして生徒を集める予定です。先生にぜひ、来ていただきたいんです。給料はここの2倍は出せると思います」

どうしてそんなに穏やかな顔で、そんなとんでもないことを言えるの?じゃあ、引き抜きにここに来てたってことなの?

「ちょっと待ってください。本当に? 本当に蔵野楽器の方だと言われるんですか…そんな……」

「そうです。嘘じゃありません。先生の他に、ヴァイオリンの武田先生と、サックスの杉山先生もお誘いする予定ですが、先生を一番にしたくて。どうしても来ていただきたかったから」


そのとき、レッスンルームの扉のガラスの向こうに、ちらと廉の姿が見えた。

廉はこちらをじっと見ている。泉は心臓が止まりそうになった。

「そんな…本当なんですか……小澤さんが、蔵野楽器の…」

泉はだんだん自分の呼吸が乱れてくるのを感じた。レッスンルームには空調は入っているが、空気がよどんでいる。何だか息苦しい。

「そんなに驚かないで下さい。別にスカウトなんて、他の会社でも普通にやってることです」

小澤がそう言いながら泉の肩に手をかけた。

「はぁ。そうなんですか……でも私にはちょっと、唐突過ぎて…」

そのとき突然、泉のスカートのポケットに入れていた携帯が震えだした。

泉は思わず逃げ道を見つけたように携帯を取り出した。廉だ。

どうしようか迷って、泉はその場を取り繕うように、「ちょっと、ごめんなさい」と言って電話に出た。


「外に出ろ」


低い声だ。また怒っている。案の定、ガラス戸の向こうで廉がこちらをにらんでいるのが見えた。

泉は自分がため息をつきそうなのを見られないように、小澤にも廉にも背を向けた。


「今、レッスン中ですから」

泉が答えると、「レッスン時間はもう過ぎてるぞ。話がある。14番教室で待ってる」

廉は一方的に電話を切った。



泉が電話をゆっくり閉じたのを見て、小澤は自分の荷物を片付け始めた。

「先生にはぜひ、受けていただきたいんです。考えておいてください」

にっこり笑って小澤は教室を出て行った。