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 カデンツァ 第三章   


                        -15-


泉はピアノの椅子に座り込んでしまった。

嘘のような話……

確かに小澤は忙しそうな人間だったが、音楽的には素人ではないし、最近では他の楽器のクラスにも出ているといっていた。噂ではそんなスカウトもあるということは知っていたが、まさか自分にそれが来るなんて……おまけにこのタイミング…

泉は蔵野楽器に行くつもりは毛頭なかったが、ここでアリオンを辞めるとなると、変なことを言われかねないと思った。でも、もう人が何と言おうと関係ない。自分はここを辞めるのだし。ただ、廉がこの事を知ったらと思うと気が重かった。

泉は目を閉じて壁にもたれた。

どうしてこんなにいろいろなことがいっぺんに起こるのだろう。こんな調子で学校が始まったら一体どうなるのか…


そのとき、泉の後ろでレッスン室のドアが開く音がした。泉が振り返ると、廉がそこに立っている。

「――どうした?」

さっきの電話の様子と違って廉の声は優しかった。

泉は少しぼんやりしながら「いいえ、別に…」と答えた。廉の前で弱みを見せたくない。

廉は泉の方へやってきて、目の前のピアノの椅子に半分腰掛け、腕組みをしながら泉をじっと見た。


「この間はどうして帰ったんだ。僕が行くまで待ってろと言ったのに」

理恵がデラロサで酔っ払っていたときのことを言っているのだ。彼とここで言い争いをしたくない。泉は気分がどんどん落ち込むようだった。

「別にお会いする必要がないと思いました」

「人にものを頼んでおいてその態度か」

廉と視線がぶつかった。本当に怒っている?それともこんなことを言って様子をみてるだけ?確かに彼にとっては、阿部のことも、理恵のことも、何の関係もないことだ。自分にしたって、あんな手出しはしなければよかったのだ。ただ行きがかり上、気の毒だったから。

理恵のことなら、廉は何とかするかも知れないと思ったから電話したのだ。けれど廉にはそれが迷惑だったということか。泉は真意を測りかねた。

「――どうもすみませんでした」

泉は不本意ながらも頭を下げた。謝るだけなら別に何でもない。話はそれだけだろうか。廉は泉をじっと見ていた。

「阿部の件だが…」


阿部の妻が廊下で鳴海にすがるようにしていたことを泉は思い出した。

「阿部の奥さんは、阿部を辞めさせたら、不倫してた女を訴えると言ってる。勝手にやってくれと言いたいところだが、そうされたら困る人間がいるかと思って、一応訊きに来た」

廉はそう言って腕を組み、泉を見た。まだ、私のことをそんな風に思っているの? 泉は悲しい気持ちでいっぱいになった。それに、何と返事をすればよいのか。本当に訴えられたら、真紀はここにはいられなくなるだろう。

「私が困ることなんて何もありません…けど……」

「けど、何?」

泉は言いよどんだ。廉もわかってはいるのだ。これが自分のことではなく、真紀のことだと。しかし、自分から真紀の名前を口にすることは絶対にできない。

「訊きにきてくださったと言うことは、私が何かできる余地があるということですか」

「そうだ」廉は泉を見てにやりとした。

「阿部をやめさせないでもいいが、条件がある」

泉は頭に血が上って来るのを感じた。

「こんなことの交換条件にしたくはなかったが、君にどうしてもやってもらいたいことがある。個人的な頼みだ」

個人的な頼み…?

「僕は毎年この時期に、親しい友人を部屋に呼んで集まることにしてる。来週末の日曜日、その会合をやるつもりなんだが、その時、ホステスを務めてほしい」

「ホステス?」

「そうだ。食事の準備をして、客をもてなしてくれればいい」

「食事の準備…?」

「君に金を預けるから、君と僕を含め全部で6人分の食事を用意してほしい。自分で作るのが大変ならケータリングサービスを使えばいい。僕は毎年そうしてる。客は3人が日本人、それに君と僕とデイビッドだ。ルーシーは横須賀にいる友達の所へ行くといっていたから、今回は来ない。日本人の方は普段はボストンに住んでて、夏休みで日本に戻ってきてる。幸いにして、奴らは食べられないものはないし、ヴェジタリアンもいない。悪い話じゃないと思うが」

泉の頭の中は、いろいろなことがぐるぐる回っていた。

「食事をつくるだけ? よくわかりません。この話を受ければどうなるんですか」

「君がこの話を受けてくれるなら、阿部は西東京店に異動にしてやる。新宿の店を新しくする予定があるから、阿部にとってはそれほど悪い話じゃないはずだ。君の友達も地域が違えば阿部とは会わずにすむだろう。それから、君たち二人にはちょっと早いが内定を出す。まぁ、卒業してもここに来る気があるのなら、そうしておいて損はないと思うけどね」

つまり、廉は阿部を異動させ、真紀も卒業してもここにいられるようにしてやるといっているのだ。

泉の心がゆれた。誰も損などしない。それなら。週末に私が、ちょっと家政婦の真似事をすればいいだけ……


けれど、自分はもう廉とはかかわらないと決めた。また繰り返すのか。彼の言いなりになって…泉は決心がつかなかった。

「少し考えさせてください」

「2日だけ待つ。ケータリングもそれぐらいなら待てるから」

廉は腕組みしたまま部屋を出て行った。