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 カデンツァ 第三章   


                        -16-


あの時、ついうっかり、「はい」と返事をしてしまいそうだった。

その夜、泉は自分の部屋へ戻って考えていた。彼が自分を必要としてくれて、うれしくないわけがない。けれどそれはしないと決めたのだ。

何度も同じ間違いをしてどうするの?

考えさせてくれとは言ったが、泉は2日待たずにすぐ電話すべきだと思った。そうでなければまた決心が揺らいでしまう。

泉が電話をしようとしていたその時、まるで謀ったように電話が入った。

「阿部です」

里美だった。

「あなた、森嶋さんとお知り合いなんですってね」

里美はいきなりそう言って、くすくす笑った。嫌な笑い方だ。今日、哲也にすがっていた里美とは全く違う。

「お知り合いって、アリオンで働いていたら、みなさんご存知だと思いますけど」

泉は何のことかわからないというように答えた。

「ごまかさなくてもいいじゃない。私、夫のことを調べてた時に、偶然、あなたと森嶋さんのことも知ってしまったの」

泉は言葉をつまらせた。まさか…本当に?

「全くあなたたち学生ってすごいわね。よくそんな時間があるものね。アルバイトして、練習して、学校通って、男を漁って…」

里美の言葉は針のように泉の神経に突き刺さった。否定できない。言葉は悪いが見る人が見れば、そうかもしれなかった。

「――それで…何がおっしゃりたいんですか」

「ああ。忘れるところだったわ。あなた、森嶋さんとお知り合いなら、うちの主人が首にならないように、口ぞえしてもらえないかしら。いえ、当然、していただけるわよね。だって、森嶋さんも困ると思うのよね。あなたとそういうことになってるって、アリオンの皆さんに知られちゃ仕事がやりにくくなるでしょう?」

「それは……」

脅迫…泉はとっさに言葉をのみこんだ。里美をここであおるのは間違いだ。

「私、森嶋さんとはどういう関係でもありません。だから、そんなお願いされても困ります」

私と彼はもう別れたのだ。以前、何があったにしても。泉はこういうことをする里美が許せなかった。

「もちろん証拠なんてないわ。ちょっと見かけただけだし。でも、森嶋さんはいろいろいいお家のお相手を探していらっしゃるんですってね。そういう方たちは彼にあなたのような人がいるって聞いたら、どう思うかしらね」

「私を…私を脅すなら訴えます。あなたを」

泉は勇気を振り絞って言った。恐ろしい…けど、こんなこと、許せない。

「訴えるって、貧乏学生のあなたが?できるもんならやってみなさい。第一、私はひとこと森嶋さんにお願いしてって言ってるだけよ。これが脅しですって?よく考えなさい」

里美の笑い声とともに電話が切れた。泉の身体が震えた。



どうなったって知らないわ。もう自分はアリオンをやめるのだから。

一方ではそう思い、しかし、廉の仕事がうまく行かなくなるのは自分の本意ではなかった。それも仕方がないことだと割り切ればいい。


2日間、泉は悩み続けた。そして、とうとう廉に電話した。


「…阿部先生をやめさせないで転勤させて、本当に内定を出してもらえるんですか?」

泉は廉に電話で訊ねた。

「君がそんなに内定が欲しかったとは知らなかった。それなら早く言ってくれればよかったのに。けど、今回だけは交換条件だ」

廉にそんな風に物欲しそうにしていると思われるのは本当はいやだった。けれど、この面倒なことを避けるためにするなら、こんなことなんでもない。

「書面を出してもらえますか」

念押しするなんて、変だと思うだろうか。けど…

「ああ。出そう。阿部もすぐに異動させる」

泉は小さくため息をついた。よかった。

「ありがとうございます。じゃ、日曜日に」



泉がすぐに電話を切ったのを、廉は不審に思っていた。なんだかおかしい。もちろん、彼女にはどうしても来てもらわなければならない。そのためにはもっといい条件を出しても良かったのだ。彼女が来ると言ってくれたのは幸いだったが…

廉は翌日には阿部の異動について鳴海典弘に話をし、典弘が人事部長に二人分の内定の書面を作らせた。社内で権力を振りかざすようなことはしたくなかったが、これはどうしてもやらなければいけないことだった。

泉にここに残ってもらうために。

そして、
自分の考えが間違ってなかったことを確かめるために。