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 カデンツァ 第三章   


                        -17-


次の週の週末、集まりの日の朝早くに泉は廉のマンションにやってきた。一応、メールで食事のメニューは渡してあり、廉に了解はとってあるが、スパイスや調味料が心配だったのだ。

この間廉の部屋に行ったとき、それは確認していなかった。彼の話によると、時々こうして人を招くことがあるらしく、その時は廉の姉が来るらしかった。ケータリングもしょっちゅう使うようで、あれだけ食器をそろえているのはそのせいだったのだ。

ただ、廉から預けられたお金は6人分の食料と酒をまかなうには、どう考えても多すぎる額だった。銀座のフレンチでもない限り、こんなには使わない。

泉はそんな高級な料理はだせないとはじめに断ったが、廉は「君が好きなだけ、良いものを使えるようにと思っただけだ」と答えた。

調味料をチェックして、泉と廉は近くのスーパーに買い物に出かけた。廉はマンションのすぐ近くの高級食材を扱うデリカに行くのかと思ったのだが、泉は先に別のスーパーで食品を仕入れるつもりだった。普通の家庭の主婦たちが日々の食材を買いに来るところだ。

泉はなるべく食材をあまらせないようにしたかったので、ゲストに出すメニューのほかに、廉が後で食べられるように別の料理も考えている。もし、食材を余らせたら、たぶん自分で料理などしない廉は冷蔵庫の中を全部捨ててしまうだろう。

そのスーパーで、泉は花も一緒に買った。小さなものだが、食卓に飾るもの、玄関に飾るもの、リビング、トイレ、洗面所に置くもの。廉はこのこまごましたたくさんの買い物がそれほどの金額にならないことに驚いていた。

最後にデリカでスーパーでは手に入らなかったフェンネルの茎を買った。これはスズキの腹に入れてにおい消しにするのだ。




部屋に戻ってきて、泉はすぐに料理を始めた。開始は5時から。たぶん夜遅くまで。一方、廉はもう何もすることがない。掃除はもともと1週間に一回のペースで家政婦に来てもらっているのでするところがなかったし、買ってきた花を泉に言われたとおり、浴室の桶に氷とともにあけただけで、後は泉任せなのだ。

2時間した頃にはキッチンから良いにおいがし始め、廉は用もないのに、キッチンにやってきた。

「おなかがすいたんですか?」

泉が包丁を持ってしょうがの皮をむいている。

「うん」

そう答えた廉は、後ろから泉を抱きしめた。邪魔しているのはわかっているが、泉はおいしいにおいがする。腹が減っていて、彼女を抱きたくて、妙な気分だ。

「あとちょっとしたらお昼にしますから、我慢してください。はい」

そう言って、泉は今切ったばかりの蒸した鳥のささ身の切れ端に、ちょっとだけソースをつけて廉の口に持っていった。

「…うまい」

廉が泉からやっと離れた。泉は小さな皿に、大皿に乗らなかったものを二つほど取って廉に渡した。

「これ以上はだめです。向こうでおとなしくしててください」

廉は仕方なく皿を手にリビングに引っ込んだ。戦利品を得たのだから、一時退却だ。


リビングに引っ込んでからも、廉はカウンター越しに泉をずっと眺めていた。キッチンにいる泉はなぜか幸せそうだ。退屈しないようにかけているパールマンのチャイコンのCDに合わせて、時々鼻歌で歌ったり、らーらーと自分で歌ったりしている。泉がこんな風に幸せそうにしているのを、廉は初めて見た。

眺めているとこっちまで楽しくなってくる。あの頑なな態度が嘘のようだ。この時間が過ぎたらまた、泉は以前のように戻ってしまうのだろうか…?

廉はそうならないように心の中で祈った。

泉はおにぎりをいくつかと、余りもので作ったおかずを何品か並べてお昼ごはんにした。夕方にはゲストが来るので軽めの食事だった。

「ねぇ一杯だけ。飲んでもいい?」

少しずつだが、そこに出されているのは、酒の肴になるようなものばかりなのだ。廉はアルコールを我慢できなかった。

「しようがないですね。本当に一杯だけですよ」

泉はそう言って、冷蔵庫の中のビールを取りに行った。さっき行ったスーパーで、いろいろなビールをたくさん買ってきている。泉はその中からハイネケンを取り出した。

「まだお昼ですから」

廉は普段あまり軽いビールは飲まないが、この際、アルコールがもらえるなら何でも良かった。

「君は本当に怖い奥さんになりそうだな」

それを聞いた泉は、缶に手を伸ばそうとした廉をにらんで手を引っ込めた。

「ああ。うそうそ。そんなこと言いません」

泉がくすっと笑って廉に缶を手渡す。廉はうれしそうにそれをもらって、プルタブを引いた。


「ああ、うまい」

こんな幸せがあるだろうか。うまい食事に酒、そして愛する女性。廉はこの後、友人たちが来なければ良いのにとさえ思った。もちろん、彼らが来るという理由なしに、泉には来てもらえなかったのだが。

泉は小さなおにぎりを一つ取って食べている。赤いエプロンをして、椅子にちょこんと座っている姿がなんともかわいい。包丁をもって鼻歌を歌っている時もそうだったが、今日はいつもアリオンで見る時と違ってリラックスしているようだ。こんな女性を一体どうして手放すことなんてできるだろう。

誰かに譲るなんて絶対嫌だ。自分には、他の誰でもなく泉しかいない。

食事を終えた泉は最後の仕上げにかかった。時間のかかる鍋を火にかけ、その間に風呂場に置いておいた花を分けて、それぞれの場所に飾っていった。他にすることがなくなったとき初めて、泉は廉にピアノを弾かせて欲しいと言った。

廉は「君の好きなように、何でも使ってくれて良い」と言って音楽室を開放した。


泉ははじめ、ずっと濡れていて伸びきった指の筋肉を元に戻すためにハノンを弾いていたが、そのうち廉の知らない曲を弾き出した。これは……!

廉は音楽室の録音マイクをONにした。泉は弾くのに夢中で何も気づいていない。同じフレーズを何度となく繰り返す泉だったが、それはどれも少しずつ違っていた。

そして、しばらくするとまた別のフレーズを弾き始める。少しずつアレンジされていくが、泉はそれを意識しているのかいないのか、何かに取り付かれたように弾き続けるのだった。

ほとんど1時間ばかり、泉はピアノに向かい続けた。途中ではっと気づいて弾くのをやめた泉は、鍋が心配でキッチンへ走った。しかし、廉が時々中身を確認していたので、鍋は全く大丈夫だった。

キッチンに戻った泉には何も言わず、廉はずっと録音していた泉のピアノの音をパソコンに読み取らせて、譜面を出力した。曲にはなっていないが、後から譜面を起こすよりはましだろう。

廉ははじめの1枚だけとりあえず出力されるのを確認して、リビングへもどった。