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 カデンツァ 第三章   


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5時ちょうどに日本人の客たちがやってきた。ある程度予想はしていたが、廉の友人たちというのは、普通の人々ではない。

廉の幼馴染だという緒方秋実は、USの医師の免許を持つ数学者、また、ボストンに居た頃の友人だという長谷川徹は、USのジャズ業界で最近、引っ張りだこになっているサックスプレーヤーである。泉は雑誌で何度も長谷川の名前を見ていた。

しかし、なんと言っても泉を驚かせたのは、緒方秋実の妻、綾子だった。

彼女は一宮綾子として、ここ数年、世界で活躍しはじめたソプラノ歌手である。一宮は旧姓で、あやこと書いてりょうこと読む。綾子は泉と3つしか違わないが、泉にとっては雲の上の存在だった。

数年前、留学先のミラノのコンクールで金賞を取った綾子は鳴り物入りで日本へ凱旋帰国した。テレビで流れたその美しい声には誰もが魅了され、メジャーレコードの名だたるところが綾子と契約を結ぼうと次々にやってきた。

ところが、日本でのデビューとある大きなオペラのメインゲストとしての参加が決まった後、綾子はその才能を妬んだ周りの人間たちに、いろいろな噂やスキャンダルをばら撒かれ、陥れられた。

住んでいたところにはメディアが押しかけ、日々の生活も普通に出来ない状態となった綾子は、仕方なく日本を一時離れた。

泉もこの時のことは良く覚えている。テレビのワイドショーが連日、それを放送していたからだ。契約が決まっていた日本のレコード会社からは一方的に契約を破棄され、よからぬ噂を立てられたまま、綾子はイギリスでデビューすることになった。

その噂やスキャンダルが他人によって仕組まれたものだということが、公に明らかになったのはそのすぐ後だったが、綾子はしばらく日本に戻ってこなかった。

日本のレコード会社は、契約を自分たちから破棄してしまっていたので、再契約することが出来ない状態だったし、綾子の夫の秋実もUSで仕事をしていたので帰る必要もなかった。

ヨーロッパで売れた綾子のアルバムはUSでも当然売れた。一部の人間に振り回された格好で綾子が日本から追い出されたその事件は、今でも業界の汚点となっている。

たまに外国人のコンサートにゲスト出演することもあったようだが、綾子はこれまでめったに日本では顔を見せなかった。その彼女がここにいる。

本物の綾子は雑誌で見るより小さくて、もっとやせていた。背は泉より高いが、一見してとてもソプラノ歌手には見えない。大学の声楽科の友達の方がよっぽど大きい。

それなのにあの声。泉は綾子の輸入版CDを持っている。何度もうっとりさせられた。歌声もともかく、綾子の胸声もちょっとハスキーで美しい。泉は綾子を紹介されただけで、どきどきしてあがってしまった。

廉がこんなすごい人たちと友達だなんて…確かに、廉自身も普通の人ではないけれど…

泉は廉との間にあらためて、大きな隔たりがあるのを感じた。

その後すぐに、デイビッドが遅れてやってきた。一年ぶりだという再会を皆で喜び合ったが、廉は泉に、これからちょっと会議をすると言って、男たちだけをダイニングテーブルにつかせた。

残された泉と綾子はリビングのソファでそれが終わるのを待った。泉が何もわからない様子でいると、綾子が教えてくれた。

この集まりはそもそも、緒方秋実と長谷川徹が持っている特許の使用料の報告会で、廉とデイビッドはその管理を任されているので、一年に1回、夏に皆で集まることになっているというのだ。

「まぁでもそれは口実。こうやってみんなで集まるためのね」

綾子はそう言って微笑んだ。自分と感じが似ており、まるで姉のような気がしてしまう綾子は、泉とすぐ打ち解けた。しかし、泉は理由もわからず、綾子に見つめられるとどきどきしてしまうのだった。


ダイニングテーブルの上ではデイビッドがなにやら持ってきた資料を配って説明していた。今年の配分は10%で結構良い線だとか、来年にはイギリスにも持っていけそうだとか、そんな話だ。

その金額は桁が大きすぎて泉にはよく理解できなかったが、彼らがとにかく政府を相手にしたビジネスで相当な金を稼ぎ出しているということはなんとなくわかった。

男たちの話は15分ほどで終わり、彼らはリビングの方へ移ってきた。

廉は泉と一緒にキッチンに並べてあった料理を持ってきた。後でまだ持ってくるものがあるが、リビングのテーブルに一杯に並べられた料理に彼らは目をみはり、皆がそれを楽しんだ。

泉はそこに居ることが場違いではないかと思いながらも、ゲストたちの話がそれぞれにとても面白くて、やはり有名人というのは普通の人たちとは違うのだとあらためて感じていた。


酒が進んでくると、徹が廉の部屋に置いてあるいろいろな楽器で遊び始めた。プロの音楽家はやはり一通りのことは自分で出来る。

徹はサックス吹きだが、今夜はフェンダーのギターをかき鳴らしている。秋実もそれを聴いて、ベースギターを手に取った。

廉が調子に乗ってドラムセットの前に座ると、3人はKISSのデトロイト・ロック・シティをやり始めた。徹はともかく秋実も結構な腕前だ。

泉は廉がドラムをたたくのを初めて見た。彼はこれが本業だったのだろうか。少なくともピアノではない。そういえば、ここに入る時にドラムの音が響かないようにしたと言っていた。

泉はそれを聞いたのがもうずいぶん前のように感じた。

「へたくそ!」秋実が途中、難しすぎてリフを続けられなくなった徹をののしり、徹も負けずに「おまえに言われたくないね!」と言い返す。デイビッドがそれを見て、げらげら笑っている。

プロに「へたくそ」と言えるなんて、この人たちは本当に良い友達なんだわ。泉は彼らが少しうらやましくなった。