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 カデンツァ 第三章   


                        -19-


「いつもこうなるのよ。毎年。ここに来ると」

綾子が泉に言った。「子供みたいでしょ」

綾子の目が笑っている。「そうですね」泉も微笑を返したが、次の料理を出すためにキッチンへ戻った。

泉がオーブンから若鶏のグリルを取り出して、ソースをかけなおしていた。部屋いっぱいに少しこげたソースのいいにおいが広がる。

音楽室では3人のセッションが終わって、「腕が落ちた」だの、「楽器の手入れが悪い」だの文句のいい放題になっている。

綾子はそれを傍目にくすくす笑っていたが、ピアノの向こうに置いてあるコンピュータのプリンタから大量に譜面が落ちてばらばらになっているのに気づき、それを拾いに行った。

手に取ってピアノの譜面だとすぐ気づいたが、ちゃんと小節が区切られていないところを見ると、わざわざ作ったものではない。綾子はそれをピアノの譜面台に置いて、自分で弾き始めた。


廉はそれをじっと聞いていた。綾子は譜面を、ただちょっと見てゆっくりだが初見で弾いている。

譜面の3枚目ぐらいまでを弾くと、綾子は「うーん…」とうなって、もう一度初めから弾きなおし始めた。

今度は曲になっている。泉が何度か作り直したいらないフレーズを勝手にはずしている。そして大きく頷いて、さらにもう一度、初めから弾き始める。

綾子は今度は自分の声をスキャットで入れながら歌った。それがとても巧妙なカウンターパートになっている。


ふと視線を戻すと、泉がキッチンから出てきて、音楽室の入り口でぼうっと立っていた。手にはオーブントレイを引き出すための大きなミトンをつけたままだ。そして、呆然とピアノの近くまで行き、綾子の目の前にある譜面を手に取った。

「これ……一体、どうして…いつの間に。さっき、ちょっと弾いただけなのに」

泉が廉の方を振り返った。

「ごめん。泉。録音させてもらってた。譜面にする時間が勿体ないと思って。データはもちろん君のものだから、後で渡すよ」

解析したことは泉にもわかっているはずだった。学校で同じ事をしていると前に彼女から聞いている。

「あら。これは泉さんの曲だったの――泉さん、作曲するの?」

綾子が弾んだ声で訊ねる。

「あ、ええ。少しだけ。あの…すみません、良かったらこの部分をもう一度…」

泉は譜面を指差した。

綾子が「ここ?ああ…私もここは好きよ。この展開。だってすごくきれいなんですもの」と言いながら、その部分を弾いた。

綾子の声がさっきより響いている。さすが本物のソプラノ歌手…めまいがしそうな美しさとはこのことだ。

「すみません。私にピアノを弾かせてください」

泉は綾子に変わってピアノを弾き始めた。それから二人のセッションがはじまった。泉はわかっていなかったが、廉は急いでマイクをピアノの方へ向けてセットした。

泉が弾くのに合わせて綾子がスキャットを入れる。泉は綾子の声に刺激されて、どんどん新しいフレーズが沸くようだった。綾子の声もそれに合わせて変わっていくのがわかった。

やはり、この二人…



男たちは綾子と泉を遠巻きにして、音楽室のカウンターの方にいた。そこにアルコールが置いてあるので、必然的に溜まり場になってしまう。

「ちょっとちょっと」

廉が戻ってくると、徹が言った。

「あの二人、姉妹なの?それともイヤラシイ関係?」

廉は徹をにらんで、持っていたスティックで徹の頭をたたいた。

「姉妹ではないが、イヤラシイ関係にはなりそうだな」秋実が廉にギネスの缶を渡しながら言う。

「イヤラシイカンケイッテナニ?」デイビッドが訊く。

「君が長く忘れてる春のことだよ」秋実はにやにやしながら答えた。

「?No,no. Spring has come also in me」

デイビッドは大体のことはわかっているのだ。しかし、春が来たとは何のことだ?廉はデイビッドの方を振り返った。

「レンガ、ボクトイズミサンノジャマシタ。デモ、イマワハル。ナナチャント」

「なにぃ!?」

廉はギネスを吹きそうになった。

「ナナチャンってまさか、あの…」

「ソウ。ナナチャン。イズミサンノトモダチ」

「いつの間に…」

そういえばなんだか最近動きが怪しかった。何かあるとすぐ上野へ行くと言うし。そうか…そういうことになっていたのか。けど、デイビッドと彼女は一体いくつ年が違うんだ?

「デイビッド、彼女は20は超えてるのか? 一つ間違ったら犯罪だぞ」

「ダイジョウブ。ナナチャンハ、モウ20サイ。ソレニ、ボクノコトスキ」

「へぇ」

とりあえず今のところはうまくいっているのだろう。廉は驚くやらあきれるやらで、またビールを口にした。



泉と綾子はほとんど小一時間ほど、二人で創作活動のようなことを続けた。廉が録音してくれているので譜面は自分で書かなくても良かった。泉はただ、思ったようにピアノを弾けばいいのだ。綾子も泉が描き出す音が、自分たちを高揚させていくのを感じている。それは相乗効果となって音にも声にも現れていた。

セッションを終えた後、泉は自分の曲に命が吹き込まれたように感じていた。音楽は、それを手にした人によって、こんなに変わってしまうのだ。

綾子は泉に「あなたとは、また会う必要があるわね。どうしても」と言った。そして他にも自分に歌えそうな曲があるなら、送って欲しいと廉と泉に頼んだ。