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 カデンツァ 第三章   


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11時ごろ、ようやくこの集まりはお開きになった。

泉は綾子に請われるがまま、連絡先を交換した。廉の頭越しに綾子と会うのはどうかと思ったが、綾子はそんなことは気にしなくて良いと言った。なぜなら、廉はこうなることを知っていてお膳立てしたのだというのだ。

本当だろうか?

泉は廉がそんなに自分のことを買っていると思っていなかった。Jでのことがずっとトラウマのようになっている泉は、どうしてもそれを忘れることができないでいた。


皆が帰った後、廉と泉は二人で部屋を片づけてまわった。洗いものもほとんど終わり、皿を拭いている手をとめて廉が言った。

「今日はありがとう。君がいてくれて本当に良かった。みんな楽しんで帰った」

廉は皿を置いて腕を組み、泉をじっと見据えた。

「私も楽しみました。普段とても会えないような人と話ができましたし…あんな方たちに会えるなんて、思ってもみませんでしたから」

泉は洗いものを終えて、タオルで手を拭いた。綾子と一緒にいた時間が嘘のようだ。才能のある人と一緒にいると、ああいうことができるのだ。まるで夢を見るようだった。

「私、そろそろ帰ります」

泉が自分のエプロンをはずしにかかると、廉がその手を取ってやめさせた。そして泉を自分の方へ引き寄せて、きつく抱きしめた。


「いやだ。帰るなんて言うな」


泉は何も言わずしばらくそのままでいた。

廉の気持ちが痛いほどわかる。私だって、本当は帰りたくない。けれどもう何度も考えた。私たち二人はどうにもならないし、できない。誰もがそう望まないから。

「廉さん…苦しい……」

そういえば廉は自分を放さざるを得ない。泉は廉が腕を緩めたのをいいことに、身体を少し離した。


「そうだ、君に渡すものがある」

廉はそう言ってキッチンを出て行った。

渡すもの?譜面のことかしら。泉は帰り支度をするためにエプロンをはずしながらリビングにかばんを取りに行った。

リビングに戻ってきた廉は泉をリビングの入り口にあるサイドボードの鏡の前に立たせた。そうして、泉を鏡の方に向かせて目を閉じるように言った。

廉が自分の首に何かをつけている。ネックレス?

「目を開けて」


サイドボードの鏡に映った自分の胸に、ティアドロップ型のダイアモンドが輝いていた。

声が出ない。

「わたし…こんな高価なものいただけません……」

泉がようやく口を開いたのを廉がさえぎった。

「受け取らないなんて言わないでくれ。僕はずっと君に何か買ってあげたかった。けど、夜の街で働いてる女性たちにするのと同じことじゃないかって、誤解されそうだったから今まで我慢してたんだ」

廉はそう言って、泉を後ろから抱きしめてささやいた。

「これはずっとはずさないで欲しい。寝るときも、風呂に入るときも、24時間ずっとだ。君が僕のところに本当にくるまで」

――めまいがする。この恐ろしいほどの幸せ。このまま彼と一緒にいてはいけないんだろうか。

私も彼を愛してる。こんな風に人を愛したことはなかった。あの社長秘書とかいう人に、もう付き合わないと言ったからって、どうしても守らなければならないことなんて何もない。いっそ廉が言うとおり、彼と一緒にいたら…

泉は廉に抱きしめられながら、廉と二人の生活をほんの一瞬、頭に描いた。

「泉…こっち向いて」

廉が我慢できなくなって、泉を自分の方へ向かせた。今までお預けを食らっていたのを取り戻すかのように廉は泉に唇を重ねた。あまり激しいのにおどろいて、泉は一瞬身を引こうとした。後ろへ下がった泉を再び自分の方へ寄せて、廉は泉にもっと深くキスした。

身体がビリビリする。彼に触れられると。こうして逃げられないような状況では。

長い情熱的なキスの後、廉が言葉を口にする前に、泉は「帰ります」と言った。

しかし、廉は首を振った。



「今日は帰さない」

廉の瞳には一点の曇りもなかった。

「僕たちはもうくるところまで来たんだ。泉」