自分がそうすることが間違っているなどとは考えてもない。愛する人と、そうするのはあたりまえのことだから。
泉は廉が本気なのだと思った。あとは私の気持ちだけだ。
廉の手が泉の頬にのびた。その親指が頬骨の上をこする。廉は両手で泉の顔をはさんで顔を近づけた。唇が触れそうなほどに近くなったところで、カチカチになった泉に廉は言った。
「君が好きだ…」
廉はゆっくりと唇を重ねた。泉が逃げられないように頭を後ろから支えて、柔らかい唇をゆっくり味わう。泉はもう逃げることは出来ないと思った。廉の口づけは胸が苦しくなるほど、切なく、甘いものだった。
泉はシャワーを使わせてほしいと言い、廉は風呂場に案内した。泉の後に廉もシャワーを浴びた。寝室に戻った廉はエアコンで冷えてしまった泉の体を後ろから抱きしめた。
「すぐあったかくなる…」
耳の後ろからくすぐるように廉は唇を這わせていった。
身体が壊れると思ったのはこれが始めてだ。泉はまだ息のおさまらない廉にのしかかられたまま、自分も息をおさめようと深呼吸した。
廉がまだ自分の身体の中にいる。身体が一つになるってこういうことだったんだ。自分でない誰かと一緒になると言うのは。
泉は泣きながら笑っていた。廉がそれに気づいて泉の額にかかった髪を払い、涙をぬぐって額に口づけた。
「泣いてるの?笑ってるの?」
廉の優しい愛撫に答えながら泉は恐ろしいほどの幸福感に包まれていた。彼がいるところは痛みでずきずきしているというのに、この満たされた感じはどういうことだろう?
「両方…だって…」
泉はささやくような声で言った。
「あなたが私の中にいる」
廉はそれを聞いてふっと笑った。
「そうだ。君と僕は一緒になった。ほら」
廉は自分自身に力を入れて泉をもう一度刺激したが、泉は痛みでそれどころではなく、顔をしかめた。
「あぁ、ごめん」
もうわかっている。廉は泉がいとおしくて、自分の腕の中に泉を抱きしめた。
「君は…はじめてだったんだな?」
廉は言いながら泉から離れた。泉は痛みに顔を少しゆがめて起き上がった。出血していると思ったが、思ったほどそれがひどくなかったことを知った。けれど、廉は少しショックだったようだ。
「痛かった?」
泉はそう聞かれて頷くしかなかった。実際、本当に痛かったし、この状態で痛くないというのはおかしい。
廉がまたふと微笑んで泉を横にし、自分の腕に泉の頭を載せて泉をじっと見つめた。額から頬に手が動く。そして、唇に触れるだけの小さなキスの後、「愛してる」と廉は言い、泉の身体を優しく抱きしめた。
廉の暖かい身体に抱かれているのはどこにいるより気持ち良い。泉は一瞬、現実と夢との境がわからなくなった。これは本当は夢なのではと思うのだが、身体を少し動かすと、小さな痛みがそれが現実だと教えてくれるのだ。
泉の心の中まで幸福で満たした後、廉は泉に腕を巻きつけてそのまま眠ってしまった。
廉はいつもどこかを飛び回っている。アリオンにいるときでさえ、ひっきりなしに廉に人が会いに来る。たぶんずっと疲れているのだ。だからこんな風に、あっという間に眠ってしまうのだろう。
これでおしまい…
泉は間接照明のローライトを見ながら思った。彼がそう言ってくれたように、自分もこの人を愛している。
つきあえないと言いながら、結局、こうなってしまったのは自分のがそうしたかったから…一度だけでも良いと思ったから。
愛されるということが、どんなに満ち足りたものかやっとわかったのに。
私もあなたが好き。
そう言葉にしたかった。けれどそれだけは言ってはならない。おそらく、こうなってしまったことが、近いうちに自分だけでなく廉を苦しめるだろう。
その時に少しでも痛みが小さい方がいい。私があなたを愛していると、あなたは思わない方がいい。
何もなかったのだと。ただ成り行きで、少しの気の迷いで、こうなってしまっただけと言い訳できるように。
泉は涙がこぼれないようにゆっくり目を閉じた。
廉はレグノを継ぐ。彼が望もうと望むまいと。
自分の感情だけでどうにかできる問題ではない。アリオンにもレグノにも従業員がたくさんいる。彼との関係を彼の両親が賛成するとは思えないし、アリオンの関係者もきっと喜ばないだろう。彼らにしてみたら、理恵やあの智香子という女性とうまくいってくれなければ困るのだ。
自分がこんなに生活に追い詰められていなければ、あるいはもっと状況も変わったかも知れない。こんなに全てに引け目を感じることなく、彼に何かを返さなければと思うこともなく、せめてピアノの練習をしていない時間の全てを彼に振り向けられたら…
けど、そんなことありえない。
わかっていたのに…結局、こうしてしまった。馬鹿だ。わたし……
泉はしばらく廉の寝顔を見ていたが、廉の腕を自分の身体からはずしてそっと起き出し、寝室を出た。
身支度を整え終わったとき、壁にかかっている小さな時計が3時半を示していた。
泉は音を立てないように廊下をそっと歩いてドアを開けた。鍵をかけられないままだけれど、このマンションは表にオートロックもあるし、朝までほんのしばらくのことだ。
泉は真っ暗で冷たい空気の中に吸い込まれるように出て行き、タクシーを拾った。
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