朝になって自分の目覚ましがなる前に廉は目を覚ましたが、泉がいないことに気づいて愕然とした。
いつもと違う朝を迎えるはずだった。彼女をスリーピング・ビューティのようにキスで起こすはずだったのに。廉は部屋の中を見て回った。彼女のものは何もない。跡形もなく消えた。
ふと思い立って、携帯から泉に電話すると、泉は3度目のコールで電話に出た。めずらしい。こんな時には出ないと思っていたが。泉は自分の部屋に戻っているらしい。
「一体、どこの世界にはじめての夜を過ごした男をほっぽらかして帰る女がいる」
廉は泉が間違って馬鹿なことをしてしまったと思えるように、なるべく軽い調子で言った。しかし、泉の答えは廉が期待するものとは全く違っていた。
「森嶋さん…私はあなたが望むような女性にはなれませんから」
「なに?」
廉は頭の中がぐるぐる回り始めるのを感じた。森嶋さん!?
「私ができることはやりました。約束は守ってください。これで本当におしまいです。もう電話してこないで下さい」
彼女の言葉が頭の中で3度は回った。嫌な予感は的中するものだ。もしかして、こんなことを言われるのではないかと、廉は潜在意識のどこかにこの予想をしまっていた。しかし、現実はそんなに甘くはない。泉のストレートなその言葉が本物になった。
「――君は自分のやってることが本当にわかってるのか?それじゃ一体どうして昨日の晩、俺と過ごしたんだ」
「今回の約束で私がすることはゲストをおもてなしすることでした。最後のは成り行きです……もし私が相手で楽しめなかったのなら、ごめんなさい」
それを聞いた廉は急激に頭に血が上った。
「ばかやろう!! なんてこと言うんだ!」
電話口で怒鳴った廉に驚いたのか、泉はしばらく黙ってまた静かに言った。
「私たち…お互いいい年ですから…時間を無駄にしない方がいいと思うんです。あなたには大事な仕事もあるし、私はあなたと、どう考えてもつりあいません」
廉は激昂した後で、自分の頭からさあっと血の気が引いていくのを感じた。まるで凍っていくようだ。廉は自分が本当に頭にきたときにこうなると知っていた。
「だから何だ…」
脅すつもりはないが、声が自然と低くなる。
「――私、あなたとはお付き合いしません」
廉はそれを聞いてしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「君は大嘘つきだ。心にもないことを平気で言う。僕がこのまま引き下がると思うなよ」
電話が切れた。廉はうなるように叫んで携帯を床へ叩きつけた。
こんなに頑固な女だったとは……はじめからそうするつもりだったのか。そんな、まさか……廉はベッドに座り込んだ。
どうしてこんなに頑ななんだろう。俺のことを好きじゃないのか?確かに愛してるというには、かけた時間も短いだろう。俺はそれでも彼女を愛してしまったというのに…
彼女は俺のことを「もっと知りたい」と言ったし、ピンクペッパーに連れて行った時は、「気に入られるように目一杯努力してきた」とも言った。
第一、弁当を作ってきた女なんて今までにいなかった。
友人たちをあんな風にもてなしてくれた女もいなかった。
キスするときのあの切ない表情。俺に抱かれるときのはにかんだ様子。
俺と付き合うつもりはない?それでも成り行きで抱かれてやっただと?そんな理由があるか!
わかっている……
彼女が変わったのは、この間のパーティの時からだ。正確には、俺が森嶋の人間だと知った時から…
廉は顔を自分の手で覆った。
結局、レグノが俺の足を引っ張る。俺はそんなことは何も望んでいないのに。
この間泉の家に泊まった時、泉は会社をつぶすと言うことがどういうことか知っていると公子が言っていた。
彼女の父親の会社の経営が危なくなったのは、泉が自分の進路を決める直前だった。泉は本当は音楽の道に進みたかったが、とても音楽系の大学の学費が払えるほどではなかった。
国立に行くならそれなりの勉強もしてこなければならなかったが、ピアノの腕は泉は自分でも言っていたが、それほどではなかったのだ。だから、それを諦めて普通の大学へ行った。
泉はそれでも感謝していたし、他の従業員たちに申し訳ないと思っていたらしかった。だから、泉は俺にアリオンをつぶして欲しくないと思っているのだ。
けれど……泉がどうして自分を犠牲にしなければならないのだ。彼女はもがき苦しんでいる。自分の生活にも、音楽にも、そして俺のことにも。
できればそれを受け止めてやりたい。泉がもう少し楽に生きられるようにしてやりたい。そして、好きなものを好きといえるように。何も気兼ねなく、俺のところに戻ってこれるようにしてやりたい。
廉は顔を上げた。絶対に取り戻してみせる。泉の本当の気持ち。そしてばらばらになった携帯の破片を一つ一つ拾い集めた。
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