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 カデンツァ 第三章   


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静岡から戻ってきた翌々日、泉は母を東京駅に迎えに行き、その足で紹介を受けた都内の病院へ向かった。

公子はせっかく東京に出てきたのに、どこにも行かせてもらえないのかと面白くなさそうだったが、そんな悠長なことを言っている場合でないことは泉には良くわかっていた。静岡の病院の医者の話ではすぐにでも入院して検査を受けさせたいと言っていたのだから。

入院手続きを済ませると、公子は明日からの検査に向けて看護師にあれやこれや指示を受けた。

その病院は完全看護なので、検査も入院も付き添いは必要ないといわれている。明日、検査には叔母が立ち会う予定だが、それも本当は必要ない。ただ公子も知らない病院で心細いので、やはり叔母には来てもらうことにしていた。

夕方、泉は病院を後にして、アリオンに向かった。今日は哲也に引き継ぎ用の資料を渡す予定だった。もうぐずぐずしている時間はない。週に3日のレッスンに来ている生徒は全部で24人、彼らを全部誰かにお願いしなければならない。

泉がまとめていた資料には、生徒たちの進捗具合や、得意な傾向の曲などが書いてある。できれば生徒たちにそれぞれに合った講師をつけてほしかったし、彼らがこれからも音楽を楽しんでいけるようにしてほしかった。泉は生徒には今週中に辞める話をしてしまう予定だった。


レッスンの合間をみはからって引継ぎ用の資料を渡すと、哲也はものすごく寂しそうな顔をした。

「本当に残念だ。でも、君にはもう内定が出ているんだから、もし時間ができて戻れそうになったら連絡して下さい。僕ができることはするから」

「…ありがとうございます」

しかし、もうそれもないだろう。泉はそう言ってくれる哲也にも申し訳なく思った。

廉は電話では怒り狂っていたが、自分と真紀に内定を出してくれていた。その書類が昨日、部屋に届いている。阿部のことは知る由もなかったが、少なくとも自分と真紀のことについては、彼はちゃんと約束を守ったのだ。

泉は哲也に一礼してレッスン室に戻った。今月の終わりでアリオンを辞めるつもりだった。アリオンには内定辞退の通知を送らねばならない。大学に連絡が行かなければ良いが。

その後のことを考えなくては。母の病気のこともあるし、別のアルバイトをしなくては食べてはいけないが、そんなに都合良く次が見つかるとも思えなかった。しばらく貯金を取り崩さねばならないかもしれない。もともと4年間の学費分しか持っていなかった泉にとっては気の重い話だった。



その日、アリオンから帰った後、泉は奈々子から電話をもらった。ルーシーのお別れ会をやるという。泉は知らなかったが、奈々子と博久とルーシーはあの後もしょっちゅう一緒に出かけていたらしかった。つまり、デイビッドが面倒見れない間は、奈々子たちが相手をしていたのだ。好きでやってくれていたのならいいのだが、泉は奈々子に大きな借りができたような気がした。

お別れ会はデラロサで夕方5時からということだったが、どう考えても泉は参加できそうになかった。昼間は母についているつもりだったし、夜はJで仕事がある。

これから何かあった時のためにも、泉は奈々子には母が入院したことを伝えておいた。奈々子は驚いて泉を気遣い、自分に何か出来ることがあれば言って欲しいとまで言ってくれた。泉は奈々子の心遣いをありがたく思い、そういう良い友人を持てたことをほんのつかの間、幸せに思って眠りについた。



翌日の朝早く、静岡を出たさえが東京へやってきた。泉は東京駅にさえを迎えに行き、その足で水道橋の公子がいる病院へ向かった。検査は昼間一日中続き、夜、担当医から泉とさえに話があった。公子は夕方には検査に疲れて眠ってしまっている。

泉は重苦しい気分で指定された小さな会議室に看護婦とともに向かった。

その部屋には、看護婦が二人と50代半ばの担当医、それに40代の助手が一人いて、泉たちは勧められるままに、会議用のテーブルにつけられた冷たい椅子に座った。

「さて、お母さんですが…」

医者は切り出した。

「静岡の病院からは、どのようにお聞きでしたか?」

泉はさえと顔を見合わせた。それほど詳しいことは聞いていない。

「はぁ。ただ、早く検査するようにとはききましたが…」

医者が視線をカルテの方へ落とした。そうして、小さくため息のようなものをついて、視線を泉たちに戻した。

「そうですか……では、単刀直入に申し上げます。お母さんはすい臓がんです。それもかなり悪い。私どもが考える第4期、癌としては末期になります」

泉もさえも、言葉が出ない。もしかしたらとは思っていた。静岡の病院が、早く、とにかく早く検査を受けるようにといったのは、こういうことだったのだ。たぶん、彼らにはわかっていたに違いない。

「胆嚢、リンパ節への転移も見られます。おそらく、持って3ヶ月でしょう」

重苦しい雰囲気がその小さな会議室に流れた。泉にはそれがまるでドラマの1シーンのように思えた。こんな光景はテレビで何度も見た。

これはきっと夢なのだ。どうしてこんな夢を見るのか。誰か早く起こしてくれないだろうか…


「治療はなかなか難しいと思います。化学療法を取るのは、患者さんに負担がかかりすぎるかも知れません」

担当医の声が、泉をまた現実にひきもどした。

「もう…なおらないと、おっしゃるんですか……姉は……」

さえがつぶやくように言った。

「残念ですが…」

さえがテーブルの下で泉の手を取って握り締めた。泉も手が震えるようだった。心の中で何かが壊れる音がした。


もしかしたらとは思っていた。人間だから、いつかは別れも来るだろう。けれど、早すぎる。



私を置いて、一人だけにするの? お母さん。

泉はその場に泣き崩れた。