バナー


 カデンツァ 第三章   


                        -26-


それから2日の間は、泉は病院で母につきっきりだった。検査で疲れたのか、もともと悪かったのに表に出していなかったのかわからないが、公子は急激に具合が悪くなっていった。

病気のことは、公子は泉に一言も訊ねない。検査をしたのだから、その結果がどうだとか、訊いてきてもよさそうなものなのに、公子は何も言わないのだ。泉は公子が本当は知っていたのではないかと考えていた。だから、静岡の病院であんなに急いで検査と言われたのに、自分だけのほほんとしていたのではないかと。

それに、泉は公子に本当のことを言うつもりは全くなかった。母のことだから、そんなことを聞いたら、きっと気落ちしてまってますます悪くなるに違いない。もっとも今でも十分悪いのだが。泉はさえとも相談して、訊かれてもごまかせるだけごまかそうと決めていた。


その後、泉は昼間を病院で過ごし、夜、アルバイトするようになった。公子が入院してからすぐ、泉は病院で鳴海にばったり出会った。鳴海は年配の女性と一緒で、泉に母親だと紹介した。

この人がアリオンの社長…いえ、元社長?こんなに顔色の悪い人だったかしら…泉は過去に1度だけ彼女を見かけたことがあったが、よく思い出せなかった。

「君はどうして?」

鳴海に訊かれて、泉は正直に母が入院していることを伝えた。もうアリオンを辞めることは決まっているのだから、別に嘘をつく必要もない。

「そうだったのか…」

鳴海は気の毒そうに言った。泉は病院の外から入ってきたばかりで汗を拭きながら、それでも笑って鳴海に言った。

「じゃ、私はこれで。お母様をお大事に」

鳴海はもう少し話をしたいようだったが、泉は早々に話を切り上げて母の待つ病室へ向かった。鳴海の母親がいる前で、泉は自分の母の話をしたくなかった。今はまだ誰にも話したくない。どこから母の耳に入るかわからないのだから。

幸いにして今は夏休み中だから、昼間は母についていられる。公子は時々起きては、毎日来なくても良いというのだが、いられる間は一緒に過ごしたかった。

しかし、夏休みが終わったら、一体どうすれば良いのか。今よりもっと具合が悪くなって、ずっとついていなければならなくなったら…

その時は、大学は休学しよう。そうするしかない。生活費分は最低働かねばならないし、月末には病院の支払もある。今月末まで何とかアリオンとJでつないで、その後は新しいアルバイト先を考えなければ。

泉は昨日の夜、小澤から電話をもらったことを思い出した。小澤は蔵野楽器に泉を何とか誘おうとしていたが、到底そんなことは出来ない。

「お受けできません」とはっきり断ったのだが、小澤はまた連絡しますと言って電話を切った。

そんなに誘ってくれるのもありがたい話だが、アルバイトとはいえ、やはりアリオンに後ろ足で砂をかけるような辞め方はできないと泉は考えていた。

働くのは全く別の場所で。公子のことを考えても、うまく夜の時間を使えるようなところを探したかった。



泉が自分の働き先を探している一方で、阿部もまた働き口を探さねばならなくなった。

おととい、変わったばかりの西新宿のアリオンの教室でアルコールを飲んでいるところを、よりによってめったにやってこないレグノの社長に見られてしまったのだ。

生徒たちも知っていたようだった。真紀とのことがあってから酒がひどくなり、いつもポケットに酒を忍ばせている状態になっている。アルコールを身体に入れていなければ不安なのだ。たまたま店にやってきた社長の前で、アルコール臭いと生徒に言われてしまった。

社長に話しかけられた生徒たちは、ロビーで「うちの優秀な先生は」と持ち上げるフリをして、全く逆のことを言った。生徒たちは半分冗談のつもりかもしれなかったが、社長の顔は引きつっていた。いやおうなく、阿部はその日のうちに首を宣告されてしまったのだった。

そういうわけで、阿部は仕方なく次の契約先を探していた。ライブハウスで一緒に演奏している仲間から、蔵野楽器が有楽町に新しく店を開くので、講師を募集していると言う話を聞き、阿部は蔵野楽器の東銀座の本社にわざわざ出かけていった。

特に誰にというわけでもなく、有楽町店の講師の募集について聞きたいというと、女性のスタッフが担当の部署に案内してくれて、すぐ面接してくれると言った。阿部はその日、非常に軽い格好で来たことを後悔した。幸いジャケットだけは着ているが。

面接に出てきたのは、見覚えのある男だった。どこかで見た覚えが……阿部はその男が口を開くと同時に気づいた。

「阿部先生がこちらにいらっしゃるとは。おどろきました」

「あなたは…杉山のところの生徒さんじゃないですか…」

小澤はにやりと笑った。

「そうです。覚えていらっしゃいましたか。クラスが違うからわからないかと思いましたが」

阿部ははっとした。そういえば杉山は、どことは言わなかったが、スカウトを受けたが断ったと言っていた。もしかして、それはここのことだったのだろうか。

「今日は…蔵野楽器で働かれたいと?」

ソファに深く腰掛けた小澤は言った。下手に出るのは苦手だが、ここはがまんしておかなければ。

「ええ。まさか今日面接されるとは思っていなかったので、何も持ってきていないんですが」

小澤は顔に不敵な笑みを浮かべながら、自分の持ってきたファイルをぱらぱらとめくった。

「阿部先生…。残念ながら、私どものスカウトリストにはあがっていません。理由をお知りになりたいですか」

「ええ」

阿部は不快な気分になりながらも頷いた。

「一応、私どもも有楽町店の表紙に出来そうな先生方のラインナップをつくるために、色々調査はしているのですよ。阿部先生はアーティストとしては、これから有望だということで非常に評価が高かったのですが、問題は私生活だとあります」

「私生活…?」

阿部はよくわからない様子だった。
「ええ。端的に言うと…女性関係とかじゃないですか? いろいろあります。蔵野楽器はこのあたりは厳しいですよ」

「わかりました」

阿部はこれ以上聞きたくないといった様子で立ち上がりかけた。

「でも一つだけ。あなたを雇うのに、方法がないわけではありません」

それを聞いた阿部は迷いながら、ソファに座りなおした。

「アリオンのピアノ科にいる、吉野先生。彼女を一緒に連れてきてくれたら考えましょう」

阿部はそれを聞いてむっとした。吉野泉。泉より俺の方が下だというのか。あいつはまだ学生じゃないか。それも、ピアノだって大してうまくないはず…

「吉野泉ですか?どうして、あんな学生が……」

小澤は鼻をならして笑った。

「阿部先生も近くにいるようでご存じない。彼女はピアノより作曲の方がすごいんです。ピアノもちゃんとやれば相当なところまで行くでしょう。蔵野楽器は今はそういう人材を育てる下地はないが、出来れば先行投資したいんです」

阿部はその話をにわかに信じられなかった。才能ならまだ真紀のほうがましじゃないのか。それに俺のことを泉とセットでなんて、一体どういう採用方針なんだ。そんなところはこっちから願い下げだ。

阿部は怒って通りのゴミ箱を蹴散らした。