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 カデンツァ 第三章   


                        -28-


廉が連れて行ったのは空港第一ビルの一番上の階にある展望デッキだった。見慣れない海外の飛行機がまるでおもちゃのようにたくさん並んでいる。

もうすぐ飛び立とうという飛行機が、滑走路に塗られた幾筋ものペンキの上を選んでなぞるようにゆっくりと前へ進んでいく。そうして、滑走路の端から浮力を得るまでものすごい轟音で走り出す。

機体の後ろに渦巻く空気の波が、斜め上を向いて飛んで行く飛行機の透明の尾びれとなって夕日にゆらゆらしていた。

二人は展望台でしばらく黙ってその飛び立つ飛行機を眺めていた。


「昨日、僕のところに君の内定辞退の手紙が回されてきた」

廉がぽつりと言った。その手紙を送ったのはもう1週間も前のことだが、廉のところへ回ってくるまで結構な時間がかかったようだ。

「そうですか」

泉は廉の方を見ずに答えた。また飛行機が離陸する。

「うちのバイトもやめるそうだな。初めからそのつもりだったのか」

飛行機の轟音が二人の間を保ったようだった。泉はなんと答えたらよいのかわからず、廉を見上げた。

「なぜだ?」

廉の手が泉の腕を取り上げた。泉はそれをゆっくりもう片方の手ではずした。廉はそれほど強くは握っていなかった。

「必要でした。どうしても…ごめんなさい」

「理由を言うつもりはないのか」

泉は微笑んで首を振った。

「君と一緒でないなら、石井さんにはうちに来てもらう意味がない」

「あなたは取り消ししないはずです…だって、約束しました」

泉は廉を信用していた。この人はきっと約束したことを守る。口では脅すようなことを言っても、きっと。

泉は自分のしていることがずっと、廉の気持ちを傷つけているのだと思って泣きそうになった。私はものすごくひどい人間だわ。


「君は…僕の気持ちを利用して楽しいか?」

廉はぎらぎら目を光らせて低い声でそう言うと、突然泉の腕を強引に自分の方に引っ張り、肩をつかんだ。

「君は成り行きで男と寝たりしない。そんなこと出来なかったはずだ。初めての男が僕で良いと思ったから。僕が好きだと思ったから。そうだろ?」

廉は泉の肩を揺さぶって、息も出来ないほど強く身体を抱きしめた。廉が自分の頭の上に頬を寄せてその手がいとおしげに泉の髪をなでる。

力強くて優しい手。一度はこの手に自分を投げ出した。後先考えずに、自分のわがままで、ただそうしたかったから。結局それが、この人をこんなに傷つけている。わかっていたのに…

泉は胸が痛むのを感じたが、その後、ほんの一瞬、まるでフラッシュするように幸せな光景が頭の中をよぎった。


今、自分に両親がそろっていたら。

自分がもし、お金持ちだったら。

自分がもし、誰にも文句を言われないほどのピアニストだったら。

今までのことを全部取り消すことができたら。

せめて、彼を愛してると本当のことをいえたら。

もし、

もし、

もし……

しかし、泉は現実に戻った。

もし、なんてありえない。今、自分は現実を生きてる。お金も時間もなくて、誰にも助けてはもらえない。ただ好きなだけで続けているピアノ。やっとこの世界に生きてる自分が、この人とどう付き合えるというのか。



出会わなければ良かった。この人にたとえ惹かれていたとしても、かかわりを持たないようにするべきだった。あんなことをしたのは、間違いだった。

思っていたより力のある腕も、厚い胸板も、こんなに気持ちのいいものだと知らなければよかった。

きっとまた、部屋に帰ってこのことを思い出す。長い間。その幸せな一瞬は、まるで写真のようによみがえり、そして、手に入らないものだと思い知るのだ。


泉は涙が落ちそうになるのをこらえて静かに廉を押し戻した。


「もう忘れてください。あなたにも、私にも、やるべきことはたくさんあります」

そして自分の首から、以前、廉にかけてもらったダイアモンドのネックレスをはずし、廉に差し出した。

「これは受け取るべきではありませんでした」

廉は泉の本心をうかがうように、瞬きもせず泉を見た。泉は廉をまっすぐ見ることはできなかった。


「僕からもらったものがそんなに嫌なら捨ててしまえばいい」

そして、踵を返して泉を展望台に残し、その場を去って行った。



廉の後姿は、あまりにも冷たく、寂しそうだった。こんなことになるなんて。

廉はずっと苦しんでいる。私が何も言わずに出て行ったあの朝から。声こそ出さなかったが、涙がぼろぼろ落ちた。


私はものすごくひどいことをしている。彼に愛されていることを利用して、こんなことするなんて。

私、最低だわ。


ぬぐってもぬぐっても、涙が後から後から出てくる。飛行機はもう何本飛び立ったかわからなかった。