その日、部屋に帰った泉に、阿部の妻、里美からまた電話があった。
母のことや廉とのことでばたばたしていて忘れていたが、真紀に里美が言っていたことを伝えた後、一体どうなったのだろう。真紀にはやはり第3者を誰か入れたほうがいいのではと言っておいたのだが…
「西新宿の件は残念だったわ」
里美の言いように泉はむっとした。せっかくお膳立てしたのに、阿部が自分で機会をつぶしたのだ。
「石井さんの件、そろそろ期限が来そうなので、電話してみたのよ。だって、あれから音沙汰ないんですもの。お金は用意できたかしら」
里美はあっけらかんと言った。
「真紀に何も聞いていないので知らないんです。ご自分で電話されてみてはいかがですか」
私のことじゃないのに、一体なんだと思っているのかしら。泉は言った。
「ええ、そうしようかとも思ったんですけどね。実は、もし、お金がご用意できないようなら、もう一つ条件をお出ししようかと…」
「条件?」
泉はその内容を聞いて唖然とした。里美は、慰謝料を100万に減らし、真紀の両親にも口をつぐむ代わりに、泉に蔵野楽器に就職して欲しいと言ったのだ。
「蔵野楽器へですか?私が?」
「ええ。石井さんではなくあなた。小澤さんから誘われているでしょう?」
なぜ里美がそんなことを知っているのだろう。
「その件は、もうお断りしました」
「そう。でも、かまわないじゃない。もう一度就職したいと言えば、蔵野楽器は喜んでそうしてくれるわよ。だってあなたが欲しいんですもの」
「どうして…どうして蔵野楽器に私が行けば…」
泉はさっぱり理解できなかった。
「行けばわかるけど、教えてあげるわ。あなたはうちの主人とセットなの。阿部がアリオンを首になったのは知ってるわよね。彼はうちの大黒柱だし、どこかで働いてもらわないとこまるの。阿部が蔵野楽器に入るためには、あなたが必要なのよ」
泉は言葉を失った。こんなことってあるだろうか。自分のことで真紀がどうなるか決まるなんて…
「……考えさせて下さい」
泉はようやく言った。
「もともとの期限があと1週間だから、そこまでは待ってあげるわ。でもそれ以上はだめよ」
里美は楽しそうにそう言って、電話を切った。
その夜、泉は自分のベッドの上で、この先自分がどうするべきなのか考えあぐねていた。里美と話した後、真紀に電話をしたら、借金は50万ぐらいしかできないと言っていた。それもカードローンだ。真紀自身もあせっているようで、自分の貯金と併せても70万ぐらいにしかならないらしい。
慰謝料を払えなければ、真紀は間違いなく家に戻ることになるだろう。たぶん、あの猛烈な父親に引きずって連れて行かれることになる。
自業自得と言えばそれまでだ。泉はこのことに何の責任もない。けれど……
泉は音楽を自分から剥ぎ取られたら、自分はどうなるだろうと思った。何もなくなっても、結局どうやっても自分は音楽から離れられない。だからわざわざこんな回り道をすることになった。
真紀はこのまま何とか大学を卒業すれば、たとえ富山に帰ったとしても、どんな形にせよ音楽をやっていけるだろう。けれど大学を中途でやめてしまって、富山に戻って何が出来る?
就職なんてとても無理だし、富山ではあの才能を磨くステージを見つけるのも難しいだろう。それを思うと、真紀が今連れて行かれるのは、あまりにもかわいそうな気がしてしまうのだ。
考えてみれば、里美の提案はそれほど悪くもないかもしれない。自分が蔵野楽器へ行きさえすれば、慰謝料は足りないとは言え半分になり、とりあえず今、真紀が連れて行かれる心配はなくなる。
阿部が蔵野楽器へ就職できれば、里美も慰謝料の足りない分くらい待ってくれなくもないだろう。
蔵野楽器へ行こうが行くまいが、廉に恨まれつつアリオンを去ることには違いない。生徒を連れて行くわけではないし、私はたかがバイトなのだから、それほど責任を感じることもないのかもしれない。
泉はそうして、布団にもぐりこみ、公子のことを考えつつ眠りについた。
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