大学が始まる直前、真紀は大変な状況に陥っていた。阿部と別れた後の、慰謝料の件が片付いていない。これまでに集められたお金はどうやっても70万、それ以上にはならない。家にそんなことを泣きつくわけにもいかず、真紀は八方ふさがりだった。
それなのに、この状況から最も離れたところにいて欲しかった父が、昨日から真紀の部屋へやってきていた。父の幸蔵は真紀を本当に富山に戻すつもりだった。学校の成績が思わしくなく、東京で何をやっているかわからないという幸蔵の怒りはもう限界に近づいていた。
だからつい先日、思ったよりずっと早くに来たアリオンからの内定通知は、真紀にとっては願ったりかなったりだったのだ。正直、願書を出しただけなのに、面接も試験も受けずにアリオンの内定がもらえるなんて思ってもみなかった。
アルバイトでもアリオンで講師をしていると言うことがこんなに効果があるとは。それで父の怒りをなんとか鎮めようとした真紀だったが、幸蔵は電話での話など毛頭信じておらず、東京へやってくると言い出した。
もし、アリオンで働くことになったら、富山へはしばらく戻ってこないことになる。一人娘の将来がどうなるのか、幸蔵が心配するのは当たり前と言えば当たり前だった。
そしてつい昨日、幸蔵はひょっこり真紀の部屋へやってきて、明日、アリオンに挨拶に行くといったのだ。そんなことしなくてもいいからと言っても、人の言うことを聞くような父ではない。真紀はうんざりしながらも幸蔵を伴ってアリオンへ出向いた。せめて温子ではなく、鳴海が店にいてくれればいいが。
A店の受付で、真紀は鳴海を見かけた。ついてる。鳴海だけに話が出来れば…真紀は鳴海を呼び止め、父を紹介した。
「いつもうちの娘がお世話になっております。またこの度は内定まで頂いたそうで…」
幸蔵がいつもの調子で大声で挨拶する。真紀は顔から火が出そうだった。
「いえいえ、まぁ、学生さんで忙しいこととは思いますが、よくやっていただいていますよ」
鳴海もそんなお世辞がいえるなんて結構いいやつじゃない。真紀はぺロっと舌をだした。鳴海はスタッフルームの奥の応接室に二人を案内した。スタッフルームをちらと見た限りでは、今日は温子はいないらしい。ラッキーだ。
「今日は未来の社長候補もいるので、彼にも紹介しましょう」
真紀はそれを聞いてドキッとした。泉はあまり口にしないが、森嶋は泉とどうなったのだろう。あの感じでは森嶋のほうが泉にメロメロなのだ。そこで真紀ははっとした。
これはもしかして…この内定は泉が…
そんなことを考えているうちに、森嶋がやってきた。
「石井さんのお父さんです」
鳴海に紹介されて廉は「森嶋です」と頭を下げた。
「石井さんの内定は森嶋さんが是非にと推薦したんですよ」
鳴海がそう言うと、森嶋は一瞬眉を上げたが、知らぬフリをして挨拶を続けた。
「今年は優秀な学生さんがたくさんいたので、早めに内定を出すことにしたんです。石井さんの大学の学生さんは皆さん優秀ですからね」
森嶋が言うと、幸蔵ははちきれんばかりにうれしそうな顔をして言った。
「いやぁ。本当ですか。このうちの親不孝な娘がねぇ。東京のこんな大きなところで働かせていただけるなんて…大学でも留年はするし、家に電話してもあんまりいないし、本当はもう明日にでも、富山へ連れて帰るつもりでいたんです。けど、内定をもらったって言うから、まぁ嘘に違いないと思って来たんです。でも、本当だったなんてねぇ…」
幸蔵は感極まって目頭が光っていた。
「でも石井さん、内定は出しましたが、気を抜かないでちゃんと大学を卒業してください。じゃないと就職してもらえませんからね」
森嶋がそう言って、皆が笑った。
真紀の父はアリオンから直接東京駅へ向かった。真紀の内定が本当だったことがわかったら、安心したのだ。
とりあえずの危機は去った。後は慰謝料の話だ。真紀は父に申し訳なく思うと同時に、泉のことを思った。
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