泉が内定を欲しがった本当の理由を知ったのは真紀だけではなかった。新しい融資をとりつけるためにもたれた智香子の父、藤井健三との会合に向かうタクシーの中で、廉は大きなため息をついた。
あの父親に連れて行かれるのを心配して、泉は石井真紀のために内定を取ったのだ。自分のことさえままならないくせに、人の心配してる場合か。
廉はそれを苦々しく思った。
泉はどうして俺と寝たのだろう。ただ内定が欲しいだけで、そんなことまでするだろうか。それも自分のではない。
確かに自分はあの時酒も入っていたし、泉が自分の友人を上手にもてなしてくれたことで舞い上がっていた。泉が成り行きでそうなったと言ったのは、嘘ではないのかも知れない。
けれど、好きでもない男とそんなに簡単に一晩過ごせるだろうか? それも、彼女は男を知らなかった。
廉は泉が自分のことを好きだと思いたかった。いや、きっとそうに違いない。
会合場所の赤坂のホテルのレストランには廉が先に着いた。ほどなく二人も現われた。
昔、自分の両親も一緒に、こんな会合を持ったっけ。廉は上品にグレーのパンツスーツを着こなした智香子を見ながら思った。それは智香子との結納を決める席だった。廉はその時アリオンを継がないと皆の前で宣言し、父母は慌てふためき、その場は終わってしまったのだ。
その日、会食が始まると、藤井健三は待ちきれないように廉に訊ねた。
「それで、廉さんはレグノに戻られる決心をされましたか」
いきなりの質問に廉はちょっと面食らったが、どうせこの話は今日、いずれしなければならない。匡はいい顔はしないだろうが、もし、それでだめになるようなら、別のところをあたるまでだ。もともとその覚悟はしていたのだから。
「私の気持ちは以前と変わっていません。会社は世襲であるべきではありませんから」
健三はにやりと笑った。
「お若いですな。その考えには賛成ですが、あなたはもうちょっと外の考え方も知るべきです。今の体制のままでは新規融資はどの銀行でも難しいと思いますな」
そうだ。誰もが廉が社長になるべきだと思っている。そして、自分も…なぜなら、レグノにはまだ、そういう人材が育っていないからだ。
ハーヴェイ&スウェッソンからレグノへ派遣されたとき、廉はデイビッドと二人で、懇々とアリオンの幹部を再教育した。デイビッドも言っていたことだが、この会社にはあまりにも危機感がなさ過ぎる。今レグノにいる50代の社員の中で、自分でものが考えられる人間は一人もいない。40代、そして廉と同じ世代の人間は育つまでにもう少し時間がかかる。では自分は…?
ハーヴェイ&スウェッソンからこれまでに何度か派遣された会社で、それに近い仕事をしたことはある。ただし、もっと規模の小さいところだ。まして、海外ならいざ知らず、日本で今の自分の年齢では早すぎるのではないだろうか。
「あなたがそうして踏みとどまっているのはなぜ?レグノには強力なパイロットが必要だし、それが出来るのはあなたしかいないというとは、あなた自身も気づいているんじゃないの?アリオンのVPなんかじゃお話にならないわよ」
智香子が静かに言った。
「社内にはそれを面白く思わない人間もいる」
実際、今廉がやっていることは、ほとんど会社の経営と同じだ。社内的には、この状態を続けたままで問題はない。むしろそうしていれば、上層部の社員のやる気をそぐことはない。
「そんなことを気にしてるようじゃ、アリオンはいずれにしろ潰れるわ。レグノにあなたが戻ったから、投資を考えても良いと言っているところもあるのに」
智香子は責めるような目で廉を見つめた。
「智香子とのことはもう気にしてはいない。ただ、君が本当にレグノに戻ってアリオンの社長になるなら、うちはその件を考えても良いと思っている。君が社長になることが最低条件だ」
追い討ちをかけるように健三も言った。例の件というのは、有楽町のビルの件だった。今のところ、ライブハウスを作るところまでは何とかなりそうだったが、そこに廉はレストラン施設を併設してテーブル席を持ちたかった。そしていい音のする内装にしたかったが、そこまでは資金が足りない。
もし、健三の銀行が融資をしてくれるのなら、レストランを作れる事は間違いない。
「君が出した企画はなかなか面白いものだったし、うちも興味がある。これがうまくいったら、系列を作ることも考えられるだろう」
廉はフランチャイズなどはまだ全く考えてはいなかったが、健三に興味があると言われたことに自信を持った。
後は自分の気持ち次第ということか……泉のことがちらと頭をよぎった。
彼女は自分が社長になると言ったら……廉はそれから後は考えなかった。健三に勧められるまま、杯を重ねた。
|