大学の後期授業が始まる直前、綾子から泉のところへボストンへ戻ると電話があった。以前に廉のところで作った曲の譜面は、廉がきれいにして綾子のところへ送っておいてくれたらしい。
「あなたが許してくれるなら、この曲を録音して、私のアルバムに入れたいんだけれど…実は、歌はもう考えてあるの」
信じられない出来事だ。泉は綾子が自分の作った曲に興味を持ってくれているなんて。おまけに綾子が自分で歌詞をつけてくれるとは。
「本当ですか? 綾子さんのアルバムに?」
一方で、綾子は契約のことを気にしていた。
「ええ。でも、あなたはまだどことも契約していないわよね?そうすると、録音する時にはどこかエージェントを通して契約してもらわないといけないけれど、もし良かったら、私のマネージメント会社を紹介するわ。本社はロンドンだけど、まぁ、変なところじゃないから大丈夫よ。ただ、前にも話したと思うけれど、あの曲は最終的にはオケをバックにしてやりたいの。だから、スコアを書いてもらわないといけないんだけど……あなたボストンに来て、しばらく私と作業しない?」
一緒に曲を作っていた時、綾子も泉もその曲はオケでやるべきだと思っていた。だから、オケ用のスコアを作らなければならない。綾子からこんな誘いを受けるなんて、泉は一瞬、夢のような気分だった。しかし、今はそんな時間はない。
「綾子さん。私、そんなこと言っていただけて、すごくうれしいんですけど、今こちらを動けないんです。母が入院しているので」
「ええ!」
綾子は本当に驚いて声が出ないようだった。こんなこと言わない方が良かっただろうか。泉は何とかうまくつくろえなかった自分を後悔した。
「……そうなの。残念だわ。私、あなたの曲をどうしても次のアルバムに入れたかったの。自分でもおかしなくらい、取りつかれてるみたいよ」
泉はその言葉を聞いて、どきどきした。自分の作ったものが、こんなすごい人の目に留まるなんて。
「綾子さん。私、本当のことを言うと、作曲なんて自信ないんです。今まで遊びで書いてたものはたくさんありますけど、ちゃんとしたフルオーケストラのスコアにしたこともありません。もし綾子さんが、あれを早く出したいということなら、どなたか他のアレンジャーさんにお願いしてみていただけないでしょうか。私ではたぶんまだ力不足です」
少し間をおいて、綾子が言った。
「あなたがそう言うなら、知り合いの誰かに頼んでみるわ。でも、覚えておいて。私は、あなたと仕事がしたいわ。今回だけじゃなく、この先も」
「綾子さん」
「今回だけ、あの曲のアレンジは別の人に頼むことにする。でも次はあなたと必ず。レコーディングが終わったらサンプルを送るわ」
泉は言葉にならなかった。こんなことになるなんて、誰が想像しただろう。綾子は泉の母が早く良くなるよう祈っている、と言って電話を切った。
けれど、どうして私が……
泉にはよくわからなかった。綾子は何か勘違いしているのではないだろうか。私に何か特別な才能があるとか、廉に何かを吹き込まれたのではないだろうか? 一緒に作業をしたといったって、ほんのあれだけの時間。もちろん私にとっては夢のような時間ではあったけれど。
綾子はあの曲を次のアルバムに入れると言った。本当だろうか? これは現実?
ああ、でも……
泉は廉のことを思い出した。廉はこれを聞いたらどう思うだろうか。泉は蔵野楽器へ行こうと考えていた。アリオンにはもちろん義理があるが、実際、ただのアルバイトの身なら、蔵野楽器へ就職しようが、アリオンに就職しようが、大してかわらないと思ったからだ。けれど、一方では綾子と仕事をする?
やっぱりだめ。そんなことできない。
綾子は少なくとも廉の友人だ。自分はこれまでも廉を裏切ってきた。その上また?
しかし、廉と同じところにいるわけにはいかないのだから、自分が蔵野楽器へ行くことには正当性があるような気もする。私もどこかで働かなくてはいけないのだし。
綾子には今回だけ、曲を提供すると考えることにしたら……自分が蔵野楽器へ行くことを知ったら、綾子も諦めてくれるのではないだろうか。
第一、自分はまだ学生だし、そもそも曲を作ると言うことが、本当はどういうことなのかさえ知らないのだから。
泉は言い訳を探していた。
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