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 カデンツァ 第三章   


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それから数日して、大学の後期が始まった。泉の生活は、昼間は大学、夕方には公子のところへ行って様子を見、その後バイトへ行くという、超過密スケジュールとなった。

幸いにして、公子は悪いながらも小康状態を保っている。泉が忙しいのがわかっているので、病院には来なくても良いと何度も言っているが、それでも泉が行くとうれしそうにするのがわかる。

泉は母が自分の病気を知っているのではないかとひやひやしていたが、公子はそんな話は全く自分からはしなかった。食事以外はほとんど横になっている状態の多くなった公子を見ながら、泉は医師におそらくそれほどは持たないだろうと言われたことを思い出し、涙が出そうになるのを何度もこらえた。

そうでなくても時間がないのに、泉の睡眠時間はさらに短くなった。大学でも空いている時間は全て練習室に入り、課題の練習をしているか、高田に提出するスコアを走り書きしている。

10分でも20分でも、時間は探せば結構見つけられるものだ。しかし、こんな余裕のない生活で弾いた音は一体どんな風に人に響くのか、泉はどこも削ることをしないで、ぎりぎりの状態でやっている自分を疑問に思った。


大学が始まってからすぐ、泉は自分から小澤に電話した。小澤は既にアリオンはやめていたが、最後のレッスンの時、泉に電話番号を残していった。一度は断ったものの、気が変わったらいつでも電話して欲しいと小澤は言っていたのだ。

小澤は泉に、大学を卒業するまではアルバイトとしてしか雇えないが、大学を卒業したら、契約社員として契約をすると約束してくれた。どこかで他に音楽活動をするなら、確かに契約社員の方が都合がいい。

泉が承諾したことで、小澤は非常に喜び、どこか時間を作って会って欲しいと言った。しかし泉は、これも時間がないということで断った。ただ小澤からは、近いうちに有楽町の2次開発キックオフパーティがあるので、その時、自分に同行して欲しいと言われた。

他の事はともかく、これだけはどうしても参加して欲しいという小澤の頼みを、泉は仕方無しに承諾した。

これで、もう逃げられない。自分は蔵野楽器へ行くのだ。そう思ったら、自然に廉のことが思い出されて涙が出てきた。

どうして、こんなに悲しいんだろう。これは他人のためにするんじゃない。自分が廉と一緒にいるのが耐えられないから。だからこうすることにした。

馬鹿な自分……廉を好きになったのが間違いだった。


しばらく忘れていた。好きになった人を忘れるのは、こんなにつらいことだったんだ。過去にそういうことがなかったわけではないけれど、廉のことは他とは比べ物にならない。たぶんそれは、彼が私を知っている唯一の人だから。

不思議だった。彼に出会う前も今も、世の中は何の変りもない。同じように季節が巡っているだけ。それなのに、自分の周りはまるで嵐が起こったかのようだ。

泉は正直、自分が渦中にいてもまるで他人事のような真紀がうらやましかった。


小澤に電話した後、泉は里美にも電話し、自分が蔵野楽器へ行くことにしたと告げた。

里美はうれしさがこみ上げるのを隠さず、泉が、以前里美が言っていた約束を守って欲しいと言っても、軽く返事をした。

泉はめずらしく怒りがこみ上げてきて、もう一度、約束を守るように念を押し、「それが守られなければ自分も蔵野楽器に行く意味はありませんから」と言って電話を切った。



アリオンでの最後のレッスンの日、ちょっとした騒ぎが起こった。泉はここ数回のレッスンで自分の生徒たちにアリオンをやめることを告げてきていたが、その中に、蔵野楽器へも出入りしている生徒がいて、どこからか、12月から泉が蔵野楽器の有楽町店で教えると言うことを聞いてきたのだ。

そのため、泉を慕っている生徒たちが半分ほどアリオンをやめると言い出した。それを聞きつけた温子と鳴海は泉の生徒たちを何とかとどまらせようと、ある教室で泉をのぞいて、話し合いの席をもった。

彼らは、もちろん蔵野楽器のことなどはじめは言っていなかった。しかし、以前泉のことを悪く言った温子と喧嘩になった生徒たちを中心に、皆が泉をかばい始めた。そのうち「泉がこんなところをやめて蔵野楽器へ変わっても当然だ」と、ある生徒が口を滑らしてしまった。

それからが大変だった。生徒たちがアリオンをやめるのは個人の自由だから本当は仕方のないことなのだが、温子から生徒たちを引き抜きするのではないかと疑われた。泉は温子と鳴海に呼び出された。

泉は蔵野楽器の件は本当だが、生徒たちを引抜などしないと言った。鳴海はそれが本当だといいがと言っただけだったが、温子はヒステリーを起こしてたっぷり30分、泉を責め続けた。

呼び出された教室から出てきたとき、泉はぐったり疲れていたが、もうこの話をしなくてもいいと思うと妙にすがすがしい気分でもあった。

講師の控え室に向かう途中、泉は廊下の向こうのエレベータから廉と千葉が出てくるのを目にした。

きっと、すぐにさっきの話を耳にするだろう。そしたら……

きっと、もうだめだと思うに違いない。そうすれば、すべて終わる。すべて……


泉はまた涙が出てきそうな気がしたので、廉が控え室の前を通る前にさっと部屋の中へ入ってしまった。彼が自分を見つめているのは知っていた。

けれどもう終わりだ。レッスンも今日が最後なのだし。泉は廉の影が控え室の前を通り過ぎたのを確認してから、部屋を出て、逃げるようにエレベータに乗った。

こんな終わり方は残念だけれど、廉が怒るのをこれ以上見たくない。

泉はそのあふれそうな涙をなんとかこらえながら、がらがらの電車に乗って自分の部屋へ戻った。



その夜、廉は自分の部屋に戻ってから、泉に電話するべきか否か、携帯を手に迷っていた。

哲也が言ったことは本当だろうか? 彼女は本当に蔵野楽器へ行くつもりなんだろうか?

彼女がやっていることがさっぱりわからない。自分から去って行こうとする理由はわかる。しかし、彼女は自分のことを嫌いでそうしたわけじゃない。この間だって……

廉は空港での泉の様子を思い出した。強引に彼女の身体を抱きしめたが、彼女はほんのしばらく自分の腕の中で、力を抜いて身体を預けていた。ほんの少しの間だけだったが。

自分にネックレスを返そうとしたときも、目に一杯涙がたまっていた。よくこらえたものだ。

自分とつきあえないと言うだけで、彼女がよりによって蔵野楽器へ行くような事をするとは考えられない。まして生徒を連れて行くなんて……

廉は携帯の泉の番号を一旦呼び出そうとしたが、その手を止めた。

どうせ彼女は電話には出ない。俺とわかっていたら。

それならばこちらから出向くまでだ。たぶん明日はJでステージがある。


廉は携帯を閉じた。