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 カデンツァ 第三章   


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翌日、Jに行く前に病院に寄った泉は、公子に自分の曲が有名な歌手のアルバムに入るかもしれないと告げた。公子は具合が悪いながらも、ベッドの上で驚き、うれしそうに笑った。

泉が「ピアノでなく、作曲で認められるなんて変でしょ?」と言っても、公子はただ笑って、小さな声で

「変じゃないわ。だって、どこかに才能があると思ってたもの…」

と答えた。

公子が本当にそんなことを思っていたかどうかは知らないが、泉はそんな報告ができて幸せだった。医者から告げられた残りの日が少なくなってきている。最近ではベッドの上で起き上がるのもつらそうなのだ。

公子は相変わらずそ知らぬふりをしているが、泉は公子が本当の病名を知っているのではないかと考えていた。自分が心配すると思って、何も言わないのではないだろうか…

それを考えると、泉は心が張り裂けそうだった。

一体いつまでこの小康状態を保っていけるのだろうか。いつまで話が出来るのだろうか。いつまで…

そんなことを考え始めると、公子の前で泣いてしまいそうだ。泉はいたたまれなくなって、アルバイトに行くことにした。もう6時になってしまっている。病室を出た後、泉は目頭をぬぐった。





その日の最後のステージに間に合うように、廉は何とか時間を作ってJに出かけた。ピアノからあまり見えない奥の方の席に案内してもらい、泉の演奏を最後まで聞いた。

今夜は客が少ない。ピアノの前から立ち上がり客に一礼した時初めて、泉は店の奥の席に廉が座っているのに気づいた。

ステージを降りると普段ならそのまま控え室に下がってしまうのだが、廉と目が合った泉はステージ上から客席の方へ降りてきた。


昨日は逃げるように帰っていったが、今日はそうはいかないと覚悟を決めたか。


廉は黒いドレスのスカートをゆっくりさばきながら自分の方へやってくる泉を見ながら、この面白くない気分をどうやったら隠せるか考えていた。



彼女を働かせたくない……あんなドレスを着て……ここではどうしたって男の目を引く


「こんばんは」


泉がいつものように優雅に礼をすると、廉は泉に自分の前の椅子を勧めた。

「相変わらずきれいだな」

廉は何も考えずにそう口にしたのだが、泉はその言葉でぱっと赤くなった。彼女は本当は純真なのだ。こんな女性がなぜ、あんなにひどいやり方で自分を傷つけるのか理解に苦しむ。

泉がロックを作り直して勧めると、廉はそれを一口飲んで、またじっと泉を見つめた。

「そんなに見つめられると、穴があきます」

泉はちょっとはにかんで下を向いた。いつだったか、自分の車で彼女を送った時もこんな感じだった。

「そう。僕は穴を開けるより、入れるほうが好きだが」

廉の言葉に泉はにっこり笑って言った。「そんなにゴルフがお好きだとは知りませんでした」

そう。まるでわかってるわよと言わんばかりに切り返す。侮れない女だ。廉は苦笑しながら肝心の話を切り出すために、気持ちを切り替えた。

「今日は、軽口をたたきにきたんじゃない」

泉はそれを聞いてびくっとしたようだった。俺に責められると思っている。廉は泉をまじまじと観察しながら言葉を続けた。

「昨日、哲也から聞いた。蔵野楽器へ行くそうだな」

ため息が聞こえるようだった。泉は小さく頷いた。

「大学を卒業するまではアルバイトですけど…その後はまだわかりません」

「それならうちの方が条件はいいはずだが。僕は君を契約社員でと言っただろ?大学を卒業してからなんて条件はつけていないぞ」

「アリオンにはお世話になりました。でも、もうこれ以上はいられませんから」

泉は悲しげな笑みを浮かべた。


「君はそうやって自分のプライドだけで僕を拒否するのか」

俺に取り入る隙を見せない。ずっと拒否し続ける。なら挑発してやるさ。案の定、泉はきっと廉をにらんだ。

「私がプライドだけであなたを拒否する?」

泉の瞳がきらりと光った。