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 カデンツァ 第三章   


                        -35-


その瞳の奥に、今見えたのは涙か? 俺に食いついて来い。本当の気持ちをぶちまけてくれ。そうじゃなきゃ、俺はどうしたらいいかわからない。廉はさらに追い討ちをかけた。

「君は僕が君をたぶらかしたと思ってるんだろう?だから僕が何を言っても君は聞く耳を持たない。だが、僕はいつでも本気だ。君に嘘を言ったことはない」

「嘘は言わなかったけれど、でも黙ってたわ。あなたのおうちのこと」

泉が反論した。廉は泉の反応に手ごたえを感じた。そうだ。やっと本音を言ったな。その調子だ。

「レグノの会長の孫でなければよかったのか?でも僕は言っただろ?家を継ぐつもりはないと。君はそれを信用してなかった」

「そうよ。だって、継がないわけないもの。継がないわけにいかないもの……」

まるで自分に言い聞かせるように泉はつぶやいた。やはりそうか。彼女の心の中には、結局それがくすぶっていたのだ。俺はずっと信用されていなかった。それが発覚したときから。

「大体、僕がレグノの会長の孫で一体何の不都合があるっていうんだ。たとえば、僕が会社を継いだら?君は経営者と付き合うのが嫌なのか」

「私はまだ学生です。あなたの会社の人たちはそんなこと望んでいません。たぶん、あなたの両親も。あなたにはあなたにふさわしい人がいるでしょう。それとも私を愛人にしたいんですか」

「愛人?」

廉は泉が女性でなかったら殴ってやるところだと思った。どこをどうやったらそんな考えが出てくるんだ。

「そんな考えを吹き込んだのは一体誰だ? 河部か? あいつに何を言われたんだ」

「河部さんは関係ありません。あなたと私は生活してる環境も、周りにいる人たちも全く違います。それは私にはどうやっても埋められません」

「君が心配しているのは何?確かに僕は金を持ってる。面倒な家族もいる。おまけにうちの両親はいい顔はしてない。でも、誰と付き合うなんて親に言われて決めることじゃないだろ」

「あなたは先に望みのない付き合いが出来る人ですか?私はそれは出来ません。傷は小さい方がいいでしょう?」

「先に望みがないってどうして勝手に決めるんだ。君はかなりひどいペシミストだな」

「あなたは気がついていなかったかもしれないけど、私はあなたといると不安なんです。ずっと背伸びしていなきゃならないし、どこに行っても気後れするし。あなたはそれが普通かもしれないけれど、私には普通じゃない。自分に余裕がないのはわかっています。でも私はここから抜け出せないし、これ以上頭痛の種を増やしたくないんです」


泉が言ったことはある意味真実なんだろう。現象だけを考えれば。けど、そんなことで俺が納得すると思うなよ。

廉は泉の目をまっすぐ見て言った。

「僕は君のことが好きだ。君を愛してる」

泉はそれを聞いて頭が火を噴いたかと思うくらい真っ赤になった。

「だから、本当は君には何でもしてあげたいと思ってる。君はそれが気後れするくらい迷惑なのかもしれないが。好きなんだからそう思ってあたりまえだろ? 君がバイトに忙しすぎてピアノも僕も選べないって言うなら、僕が入れる隙間を作ってもらうために僕がバイトの分を埋めたっていいだろ? それとも僕は君のバイト以下の存在?」

泉は少し考え込むようにして小さくため息をついた。

「うれしいお話ですけど、私は愛人にはなりません」

「またそれか。どうして、僕と付き合うと君は愛人にしかなれないんだ。それは僕のことが好きじゃないと言ってるのか? だったらどうしてあんなことしたんだ!」

泉が手を固く握っている。一体何が言いたい。口に出していってみろ。

「あれは……あの時は、別に……。成り行きだったんです」

「成り行き……この間もそんな事言ってたな。じゃあ、君は好きでもない男にヴァージンを捧げたのか」

泉はその言葉にびくっと震えたようだったが、廉の視線を避けるように言った。

「それにそんなにこだわってもらっても困ります。私は早く捨てたかったんですから」


廉の頭に一瞬血が上った。本当にそうならちゃんと目を見て言ってみろ。怒りが声になって出そうだった。

廉はなんとかそれをこらえて深呼吸したが、しばらく口がきけなかった。泉も黙ったままだ。


「――それで、僕をふって蔵野楽器へ行くわけだ。ご丁寧に生徒まで引き抜いて。君がそんなことをする人だとは思わなかったよ」

廉は投げやりになってそう言った。泉はそれを聞いても口をつぐんでいた。

いろいろな感情が入り混じっているのが見てはとれたが、どうしても本当のことは言わないつもりだろうか。やっぱり俺が信用できないのか。

言いたいことがいろいろあるだろう? どうして言わない。本当に蔵野楽器へ行くのか? 自分と別れて。


2人は長いこと黙ったままだったが、がまんできなくなった廉がとうとうそれに追い討ちをかけた。

「――僕も覚悟を決めた。君の考えに従ったわけじゃないが、今の会社をやめてレグノの仕事を受ける」



泉は声もなく驚いた様子で廉を見た。そして視線を落として、「そうですか……」と震えながら小さな声で言った。

彼女の最も望んでいなかったことだ。泉はうつむいたまま小刻みにふるえている。

俺はひどい男だ。自分が傷つけられた分、彼女にもその苦痛を味わわせてやりたいと思っている。一方では強烈に彼女を求めているのに。

せめて彼女がひとこと俺のことを「愛している」と言ってくれたら。彼女をこんな風に苛めたりはしないのに。

泉の白い手がドレスの生地を握りしめている。廉は自分が嫌になり、黒服に「チェックしてくれ」と声をかけた。


後味の悪い別れだった。泉は会計を待つ間に我慢できなくなって席を立ってしまった。

泉は本当はホステスではないから誰かがつくべきなのだが、廉が来たときは純子ママが泉と二人にするように店のスタッフに言いつけてあったため、廉は一人で席に残されてしまった。

様子を窺っていた純子ママが慌ててやってきたが、廉は「いいえ、僕が悪いんです」と言って謝った。純子ママと黒服に見送られながら、廉は店を出た。



こんなつもりじゃなかった。彼女をこんな風に責めようとは思っていなかった。理由を聞きたかっただけだ。蔵野楽器へ行く、本当の理由。

それなのに不用意に彼女を責めた。今頃泣いているかもしれない。

廉は自己嫌悪に陥っていた。そして通りの真ん中で自分に「ばかやろう!」と叫んだ。




自分の部屋に戻った泉は、ひとりきりになってほっとした。これで、人目をはばからずに泣ける。

泣いたっていいよね? もう。

私、今日はよく我慢したでしょう?

冷たい涙が頬を伝って、ぽたぽたと服の上に落ちた。あの人が好きだった。いつからこんなことになってしまったのかもうわからないけど、笑っていても、怒っていても、彼は私には正直だった。

家のことを言わなかったなんて、本当は些細なことだ。おかげで私は少しだけ自信を持って、青山のレッスンにも出られるようになった。大変な日常から、夢を見させてくれたのだ。

その人をあんなふうに傷つけて、怒らせて、そして失った。


けれど、こうなることはもうずっと前からわかっていた。彼がレグノの会長の孫だと知った時から。

自分は愚かしくも、心の隅でもしかしたら彼と私はこのまま付き合っていけるかも知れないと思っていた。

もし、河部とかいうあの人に何も言われなかったら。

理恵の存在を、以前の婚約者の存在を知らなかったら。

自分の置かれている状況がこんなに追い詰められていなかったら。

もし、

もし、

もし……

仮定の話は考えないようにしようと思っていたが、次から次へともしが出てくる。こんなに自分と廉は違うのだ。

埋めようのない「もし」。

泉はベッドにもたれるように座ったまま、泣きながら眠ってしまった。




それから数日して、公子の容態が急激に悪くなった。

食事のときに身体を起こすのも大変になり、泉はほとんど一日中公子に付き添うようになった。大学はもう休学するしかなかった。もともとそうしようと考えていたから、すぐに諦めはついた。

休学することを報告しに行った時、青山は「お母さんがよくなられたら、必ず戻ってきなさい。君の席は開けておく」といつになくやさしい言葉をかけてくれた。

また高田は、コンクールだけでも何とか出ないかと言ってくれたが、やはりそれどころではないのでと泉は断った。高田は非常に残念がって、来年もまたチャンスはあるから、かならず戻ってくるようにと青山と同じ事を言った。

自分のせいで推薦枠に入れなかった作曲の生徒に申し訳ないと思いながら、泉は学校を後にした。


しかし実際、この先大学へ戻ることができるかどうか、泉にはわからない。

いつかと言っても、いつ?

何の見通しも立たない。まして、泉にはお金がない。公子の入院費用は保険がいくらか出たが、それだけでは到底まかなえなかったので、今既に自分の学費に置いていた貯金を取りくずしている。

公子も費用のことを大変心配していて、さえに静岡の家を売って欲しいと頼んでいたが、買い手がつくまでには結構時間がかかりそうだった。それに、公子がまるで自分が治らないことを前提に話をしているようで、泉にとってはこの話はたまらなかった。

具合が悪くて段々口数が少なくなった公子を見ながら、泉はそれでも時々頭のなかで鳴り出すフレーズを譜面に書きとめていった。