バナー


 カデンツァ 第三章   


                        -38-


廉はそれだけでさっさと別のところへ行ってしまった。

「小澤さん。密葬って、どなたの?」

泉は廉が去っていくのを確認してから小澤に訊ねた。

「もしかして、君、知らなかったの? アリオンの社長、亡くなったんだよ」

「ええ!?」

アリオンの社長……ということは鳴海のあの母親。

「どうしてです。病気?」

小澤は困ったような笑ったような変な顔をした。

「病気…さぁ、どうだったんだろうねぇ。マンションの窓から落ちたって聞いたよ。大分アルコールが入ってたみたいだけどね」

病院であの母親に会った時、ずいぶん小さい人だと思ったのだ。哲也がずっと寄り添っていた。彼は大丈夫だろうか。泉の脳裏には彼らの姿が焼きついていた。



小澤が泉の方を振り返って、くすっと笑った。

「あなたがあんまりきれいだから、彼はたぶん嫉妬してた。これでやっととどめを刺したって感じだな」

「とどめ?」泉は眉をひそめた。

「ああ、いや…」

小澤は言葉を濁したが、こみ上げてくる笑いを隠すことは出来なかった。泉はそれ以上何も言わなかったが、これで廉が決定的に自分とは一線を引いただろうと泉は考えた。

それにしても……自分の知らないうちに、アリオンは大きく変わりつつある。




その夜、廉は自室のソファの上でウイスキーを浴びるほど飲んだ。

今日の泉は本当に誰より美しかった。あの会場に来ていた男たちの目を釘付けにしていたのを彼女はわかっていただろうか? そしてその隣にいた小澤を、皆がうらやんでいたのを、泉は知っているだろうか?

本当なら自分の隣にいるはずだった泉。どうしてあんな風に手を離してしまったのだろう。廉はものすごく後悔していた。

彼女が何と言おうが、しつこく付いていれば良かったのだ。少なくともついこの間、Jで会った時にはまだ、自分のことを心の底で思ってくれている様子はあった。今にも涙が零れ落ちそうだったのを、何とかこらえていたのは俺に想いが残っていたからじゃないのか。

泉が何も話してくれないからといって、彼女を責められた義理じゃないのはわかっている。確かに彼女が言うように、俺は嘘はつかなかったが、彼女が最も気にするに違いない大事なことを黙っていた。

それにそのことがわかってからも、彼女の気持ちを元に戻す努力はしなかった。そのうち解ってくれると、どこかで安心していたからだ。

けれど、そんな悠長な時間はなかった。彼女は皆に必要とされているし、隙あらば自分の物にしようと誰もが考えている。


自分のものに…廉は自分の顔を手で覆った。



泉はもう、小澤と寝ただろうか。



俺は一度泉の手を放した。忙しさにかまけて。いい年して怒っただけで自分のプライドを捨てることもしなかった。くだらないプライドだが……

泉はもう戻らない。

廉は自分の心の中にぽっかり開いた穴を埋めるようにまた酒をあおった。礼子が亡くなった後から、廉は酒の量が多くなるのを止められなくなっている。

礼子の遺体からアルコールが多量に検出されたため、警察はこの件を自殺ではなく事故とした。しかし、礼子がそれほど酒を飲まなければならなくなったのは、自分のせいかもしれなかった。

考えてみるとおかしなことだ。今になってみれば礼子が酒におぼれた気持ちがよくわかる。

誰も自分を責めはしない。もちろん、アリオンは礼子の手から離さなければ倒産を免れなかった。だが……

哲也はあれからまるで憑き物が落ちたようにアリオンの仕事に没頭している。それはいいことだ。おまけに、礼子の保険金が相当の額で手に入ったので、借金を全部清算したら、残りをアリオンに寄付という形で返すと言ってきた。

哲也は元々そんなことには手を染めたくなかったのだ。それは昔から哲也を知っている自分には良くわかっている。ずっとそうだった。あの母親がめちゃくちゃなことをするのを、まだ生きていた父親と哲也がなんとかかばってきたのだから。

だからと言って、自分の罪悪感が消えるわけではない……

夜、一人になると思い出す泉と礼子のことを、廉はやはり酒でしか紛らわすことができなかった。