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 カデンツァ 第三章   


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11月の終わり、廉は有楽町の店の準備で目が回りそうな忙しさだった。

8階建ての新築ビルは地下がライブハウス、1階がカフェ、2階、4階が楽器、CD売り場で4階、5階から上がレッスンルームとスタジオ、それにオフィススペースとなっており、それぞれ目的に合ったつくりになっていなければならない。

廉がH&Sをやめてレグノ戻るという噂は瞬く間に業界に広まり、智香子の言ったとおり、ある銀行が出資しても良いと打診してきた。おかげで有楽町店の出店初めから、レストランも何とか併設出来るくらいの資金はできた。

特に地下はレストランつきのライブハウスなので、1階で共用のキッチンスペースを作る必要がある。ライブハウスの方は、音響をよくするために壁と天井にそれなりの手を入れなければならなかったし、レッスンルームにあてる階も同じような工事が必要だった。

ライブハウスのレストランは、友人の緒方秋実の母親である緒方佳代にプロデュースを任せることにしていた。佳代は、一宮綾子の叔母と一緒に自宅で料理教室を開いている。秋実の父親が外交官だったせいで海外生活が長く、ちょっと変わった料理も得意だった。

廉がまだ子供で秋実とつるんでいた頃は、しょっちゅう秋実の家で食べさせてもらった。廉は佳代にそのちょっと変わった料理を期待していた。佳代がどんなものを出してくるのか、非常に楽しみだ。

それ以外のところは、大体が自分の守備範囲なので何とでもなるのだ。ただ、廉が本当に納得の行くまで手をかけるには、本当はあと少し資金がほしかった。

廉は理恵との件があったので、もうインヴェスター銀行からの融資はないものと思っていた。実際、理恵の祖父であるインヴェスター銀行の頭取、金井総一郎からある日呼び出された。

理恵とのことを聞かれたうえで、残念だと言われたのだった。金井総一郎は、理恵とのこともともかく、廉がレグノに戻ることになったのは非常に高く評価していたが、これからアリオンが経営を立て直していく上では、もう一つ決め手がないというのだ。

廉は本当は隠し玉をまだ持ってはいたが、これはまだ表に出すつもりはなかった。もう少しして、ライブハウスの前評判が高まったら、この隠し玉を表に出す。そうすればインヴェスターだけではなく、他の銀行が融資の話を自分で持ってくるようになる。

廉は確信していた。






後期の授業が始まってしばらくしても、理恵は夏休みと同じ生活を続けていた。もはや大学の授業は意味を成さず、たまに友達に会いに顔を見せるだけで、個人レッスンも講義もほとんど出ていなかった。練習もしないので、青山のレッスンなど出られるはずもなかった。

しかし、理恵の両親は理恵には全く無関心だった。一時は廉とのことを何とか進めようとしてくれた父母も、廉にはっきり断られた後は何もしてくれなかったし、最近では父親は家には戻ってきていなかった。永田のマンションにいることはわかっていたが、母親も連絡を取ろうとはしなかった。

もちろん母親の方にも若いマネージャが付きっ切りだったから、下手に家になど帰ってきてもらっても困るのだろう。一度など、理恵は母親がその若いマネージャと絡み合っているところに出くわしてしまった。それから、しばらくは理恵も家に戻らなかった。


理恵は昼過ぎに起き出して、上野の街中をふらふらする。同じような家庭環境の家の友達はたくさんいるものだ。

理恵はお金を持っているので、何かあるとすぐ頼られるようだった。理恵も特に高額のものでない限り、人にお金を出すのを嫌がったりはしなかった。それより自分に共感してくれる仲間は大事だ。

街をふらふらするのに疲れると、理恵は決まってデラロサへ行った。そこには知り合いの外国人がたくさんいて、毎日楽しい遊びを教えてくれる。

理恵は、お酒であろうがちょっと危険な薬であろうが、嫌なことを忘れることが出来るものには全て手を出していった。そうでなければ一日が埋まらない。

あんな馬鹿な両親の顔色を窺いながら、ピアノだけを弾いていた毎日がなんともむなしかった。ここには楽しいことがたくさんある。



12月に入ったばかりのある日、理恵はいつものように上野の駅の近くでふらついた後、薬を手に入れようとデラロサへ向かった。

最近、デラロサにいる売人は理恵をカモにしている。理恵は初めはこわごわでマッシュルームぐらいしかやっていなかったが、スピードや大麻にも手を出すとすぐ、まるで転げ落ちるようにコカインにたどりついた。

これを吸うと、本当にあっという間に嫌なことから開放される気がした。理恵は徐々に現実の世界から遠ざかりつつあった。


いつものようにデラロサの入り口に入ろうとしたその時、理恵は泉が自分の前を歩いているのに気づいた。

たしか泉は大学を休学することになったと北村優子から聞いた。作曲科の先生まで巻き込んだのに、コンクールは出ないわけだ。

まぁ、私も落ちこぼれたけど、結局彼女も脱落した。

そう思えば少し溜飲も下がろうかというものだが、泉は森嶋廉を自分の前からさらった嫌な女だ。

それにしても誰に会いに来たのだろう? もしかして、廉さん?

理恵は以前、夜中に家に送られてから森嶋に会っていなかった。自分から会いに行きたかったが、再度念押しするように断られた後では、恥ずかしくてそんなことは出来なかった。


それもこれも、泉がいたから…


デラロサの客席に通じる真っ暗な廊下を歩き始めたとき、理恵は泉の先にいつもの売人がいるのを見つけた。

今日は何だか廊下が混んでいる。もう誰かステージを始めるのだろうか?

理恵は人をよけながら、彼の方へ向かっていった。その背の高い売人は、理恵の姿を見るとうれしそうに手を上げて「ハーイ!」と自分に声をかけた。

間に挟まれるようになった泉は後ろを振り返り、理恵がそこにいたのを知って、驚いて立ち止まった。

理恵はとりあえず薬を先に手に入れようと売人に走りより、暗がりで手を出した。彼らが差し出した小さな白い包みを手にした途端、廊下にいた数人の男が自分たちの方へ飛びかかるようにやってきた。


「警察だ。動くな」



まさか! こんなところで警察なんかにつかまるわけにはいかない。

理恵はそばでぼうっと立っていた間抜けな泉の方へ薬をばら撒き、売人の方へ突き飛ばした。そしてすぐ近くの入り口から客席の方へ逃げ込んだ。

「逃げたぞ!」



客席の間を通り抜け、理恵は反対側の非常口からフロアを出た。その先に小さな外に通じる通用口があるのを知っている。

誰かがばたばた追ってきているのはわかっていたが、後ろを振り返る余裕はなかった。

通用口のドアは重く、簡単には開かなかった。理恵はドアノブをつかみながら体重をかけてなんとかドアをこじ開けた。

外の冷たい空気が頬を撫でる。何も考える余裕はない。

とにかくめちゃくちゃに走って駅までたどりつき、改札を駆け抜けて理恵は電車に乗った。