一年の最後の月が始まった頃、有楽町の土地をどうしても取り戻そうとしていた榊原渉は、今や、土地だけではなく、蔵野楽器そのものを手に入れようとしていた。
榊原はもともと自分の土地を取り戻すことだけを考えていたのだが、蔵野満がどうしても有楽町の土地を担保に入れることを嫌がったのだ。怒った榊原は蔵野楽器そのものに揺さぶりをかけることにした。
もともと業績のある蔵野楽器を手に入れて、転売してもいい。榊原はこの事業には興味はなかったが、買収は得意だった。
榊原はまず蔵野楽器の大量株を持つ人物を二人探し出し、長々と説得してこれを買い受けた。どちらも父親の蔵野隆は信用しているが、子供の満は信用していなかった。満が都内に強引に店を出店していっているのが気に入らなかったのだ。アリオンが降りた場所をあまりよく調査もせずに買いあさっているのを、無謀と見られていた。
榊原はベンチャー市場の一般の公開株からも毎日買取を進め、結局、満にはじめに預けさせた投資信託会社の5%分をよけても全体の35%を手に入れていた。そこまでにはほとんど時間はかからなかった。
そして榊原は臨時の取締役会を開くことを要求した。取締役会が開かれる直前、自分の会社の株が大量に榊原に売り払われていた事実を知った蔵野満は愕然としたが、後の祭りだった。
榊原は有楽町の土地とビルの所有権を投資信託に預けるよう、再度迫った。株を抑えられている今、もはや満に打つ手はない。取締役会で、蔵野満は榊原から事実上の経営権を奪われ、社長の座から追い落とされてしまった。
その後、榊原は満を追い出した直後から蔵野楽器の株を密かに売りに出した。素晴らしいタイミングだ。
榊原が買いあさっていたことで株価はずっと上昇傾向にあったのだ。上がり傾向の株価のうちに、榊原は持っている株の全てを売り抜けようとしていた。
この情報を業界の関係者より早くつかんだのは智香子だった。智香子はこれをすぐ廉に知らせた。
廉は対岸の火事のように面白おかしく聞いていたが、はたと物思いに沈んだ。アリオンは後から手に入れたあの場所で何とかやっていく算段もついていたし、計画も順調に進んでいる。今となっては何の問題もない。自分の店はもう立ち上がる。しかし…
心の底でなにより気になっていたのは泉のことだった。
あんなふうに別れてなお、泉は廉の心を蝕んでいた。忘れようとしても、簡単には忘れられない。泉が小澤に抱かれている夢を見て、突然夜中に目が覚めることさえあった。
一体この苦しみがいつまで続くのか。
どうにもできないということがわかっていながら嫉妬に狂う自分がおかしかった。そしてみじめだった。
泉がどういう経緯で蔵野楽器に誘われたのか知らないが、ちゃんと契約できているのだろうか。蔵野楽器自体の存続が危ういと言うのに。
廉はそれも余計な心配だと知りながら、考えずにいられなかった。
智香子からその情報を聞いた翌日、廉は何と小澤から電話をもらった。
「もうご存知かもしれませんが…」
小澤は言葉を渋った。
「残念ながら、有楽町店は出店できないことになりました」
小澤は言った。廉は驚きを隠せなかった。たとえそうだったにしても、どうして俺に電話をしてきたのか。
「何と言ったら良いんだろうか。私は、蔵野楽器さんとも有楽町で競っていけると思っていましたから」
「……ええ。本当に残念です。実はお願いがあって電話しました。今更こんなこと言える筋合いではないんですが」
「何でしょう?」
今までは敵だったが、もはやぼろぼろになった相手だ。廉は同情するような気持ちで要件を訊いた。
「うちで取る予定だった講師ですが、その中で、おたくから引抜した先生方がいます。杉山先生、武田先生、吉野先生、阿部先生…この先生方の中で、吉野さんだけは何とかしてやって欲しいんです。勝手な言い分とは重々承知です。杉山先生と、武田先生はご自分で就職先を既に見つけてこられてます」
「吉野さんだけ?」
「…実は阿部先生は吉野さんと一緒に取る予定だったんです。阿部さんの奥さんにどうしてもと頼まれました。うちがほしかったのは吉野さんだから、彼女を説得してくれたらと言ったんです。ご存知の通り、彼女はすごい逸材ですから。まさか本当に来てくれるとは思いませんでした。一度は断られてましたしね」
この男。知っていたのだ。泉がそういう人材だと。おまけに泉は……阿部の妻にそうするように言われたのか。
たぶん…石井真紀のために。
廉は言葉を失った。
だから何も言わなかった。言えなかったのだ。
「阿部さんを救うつもりはありません。僕はあんな女癖の悪い人は嫌いですし。ただ、吉野さんは…彼女はいずれ世の中の表舞台に出る人です。はじめのうちはやはりしっかりしたところでサポートしておいてあげないと」
小澤の言うことはもっともだが、そこまでいうということは…廉は小澤に訊ねずにはいられなかった。
「小澤さん、吉野さんとはどういうご関係ですか」
小澤はそれを聞いて笑いだした。
「ははは。そうか、じゃあ僕の作戦は成功してたんだ。僕は…吉野さんをスカウトしただけです。確かに彼女はきれいだし。パーティやなんかも連れて歩けばそりゃ目を引きますよね。この前のパーティのときは正直言って、僕はあなたに仕返しをしたかったんです。アリオンではいつもあなたが僕と彼女を邪魔してくれてたし、彼女の本心がどうあれ、あなたが彼女をとられたと思ってあせってくれればいいと思って。でも、僕には婚約者もいるし、吉野さんとはそういう関係じゃありません」
廉はそれを聞いて、また自分にチャンスがめぐってきたと思った。
泉をどうしても自分のところへ連れてこなければ。
彼女が何と言おうと、絶対に。
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