夕方、廉は仕事を早く切り上げて泉の部屋へ行こうとしていた。
泉とどうしても話をしなければ。仕事などもう手につかない。廉がオフィスの机の上を片付けて自分のかばんを持ち上げたその時、携帯が鳴った。
「こんにちは。それとも、もうこんばんはかしら?」
聞き覚えのある声。一宮綾子だ。
「やぁ、綾子さん。どうしたの?元気?」
「ええ。おかげさまで元気よ。秋実さんは、先週からインフルエンザにかかって大変なことになってたけど」
「インフルエンザ?医者が?」
「元医者よ。そう。彼、入院してたのよ。私にうつしちゃいけないって。昨日、退院したんだけどね。でも私は、予防接種受けたから本当は全然平気なのよね」
「そうだったんだ。大変だったね。で、今日はどうしたの?」
「ああ…そうそう」
綾子が電話の向こうで何かごそごそやっている。
「あのね。泉さんの作ってくれた曲ね、リハーサル録音したのがあがってきたから、そっちで聞いてもらいたいんだけど、連絡つかなくて」
「あがってきたって、どうなってるの? 泉の曲をどうにかしたの?」
廉は話が全く見えていなかった。
「ああ。そういえば、廉さんに全く言ってなかったわね。泉さんからも聞かなかった?」
泉との今の状況を知ったら、きっとめちゃくちゃに怒るだろうな。この人は……廉はちょっと返事をためらった。
「泉さんに作ってもらった曲ね、こっちでオケ版をつくって録ったの。彼女忙しすぎてフルスコアを書く時間がないっていうから。お母様が入院されてるって聞いてるけど。今、どんな具合か知ってる?」
「入院? 入院してるって言ったの? それ、いつの話?」
廉はめまいがするような気がして、天井を仰いだ。
「もう一ヶ月ぐらい前の話よ。あら?廉さん、知らなかったの?まさか…ええ、ほんとう? 彼女とちゃんと……」
綾子はそこまで言って口を閉ざした。
「その曲、もし、容量が問題ないようだったら、僕のWebのアカウントにアップしておいてくれないかな。アカウントは秋実が知ってるから。彼女を捕まえたら必ず伝えるよ。僕はこれからちょっと行くところがあるから」
廉はそれだけ言って電話を切った。何てことだ。泉の母親が入院してる?
廉は自分のコートとかばんをつかんでアリオンを出た。地下の駐車場から泉の携帯に電話したが、案の定、泉は出ない。それならこちらから出向くまでだ。廉は入谷の泉のアパートへ車を走らせた。
アパートの前に車を止めて、廉は1階の泉の部屋のチャイムを鳴らした。しかし返事はなかった。
何度もチャイムを鳴らして、それでも出ないので、廉はドアを手でたたいた。その音に驚いたのか、またしても、あの隣の住人が顔を覗かせた。
「またあんた?ドアたたかないでくれる? そこの女はいないわよ。おとといぐらいから帰ってないんじゃない?」
「どこへ行ったんだ?」
「そんなこと知るわけないでしょ。馬鹿」
その女性は自分の部屋のドアをバンとしめた。確かに、そんなこと知ってるわけないよな。
泉はどこにいるのだろう? 彼女の母親はどこへ入院したんだろう?
廉は泉のことを知ってそうな人間を思い浮かべた。さしあたって、石井真紀だろうか。しかし、過去に1回だけ、泉の実家の住所を聞き出すためにかけた石井真紀の携帯の番号は、電話を壊したときになくなっていた。
「くそっ!」
廉はまた自分の電話を投げつけそうになったが、それを思いとどまった。そうだ、デラロサにいるあの男。あいつなら…
廉は車をデラロサの近くの駐車場へ回した。泉の部屋からだと、デラロサはすぐ近くなのだ。
廉は地下の店内へ入って行った。今日はメタルの日か。入っていくなり耳がおかしくなりそうな大音量のギターが鳴り響いた。
廉が店の奥にいた博久を見つけると、博久はちょっと迷惑そうに廊下を指差して外に出るように廉に合図した。出演バンドの機材の合間から博久はするすると抜け出て廉の方へやってきた。
「今日はお持ち帰りは頼んでないですよ」
博久はにやっと笑ったが、廉はそれには答えずにすぐ要件を切り出した。
「泉がどこにいるか知らないか?」
博久は口笛を吹いた。
「やっと迎えに行く気になったんですか。どうなることかと思ったよ。ホンと」
「泉の居場所を知ってるかと言ったんだ!」
廉はいらいらして怒鳴った。
「おおこわ…泉さんは病院じゃない?お母さん、ものすごく悪いんだってさ。もう大学も休学してるんだよ。知らなかった?」
「どこの病院だ」
「水道橋のT病院。3階の内科病棟にいるよ」
廉はそれを聞いて踵を返し、すぐ廊下を出て行こうとしたが、ふと博久の方を振り返って言った。
「恩に着る」
恩に着るだってさ、いまどき。
もっと早く素直になればいいのに…博久はつぶやいた。
|