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 カデンツァ 第四章   


                        -10-


公子が亡くなってからほぼ2ヶ月がたっている。廉はいらいらする自分を抑えきれないでいた。

それまで毎晩電話をし、週末、静岡と東京を行ったり来たりしていた。彼女が元に戻るまでもう少し。もう少ししたら、きっと東京へ戻ってきてくれるのではないか。

そんな期待をずっと持ち続けて、もう2ヶ月経った。彼女にしてみたら、まだ2ヶ月なのだろうか。

泉の叔父の孝介と叔母のさえとはその間に何度も話をした。自分の家のこと、仕事のこと、彼女が「はい」と言ったらすぐ結婚するつもりであること。結婚しても泉の好きなようにさせるつもりであること。

さえは廉のことをはじめから気に入っていたので、全く反対はしなかった。始めは疑ってかかっていた孝介も、廉が足しげく静岡へ通ってきて、泉が少しずつ元気になるのを見て反対しなくなっていった。

廉にとってはそれは長い長い道のりだった。世の中はものすごいスピードで進んでいく。綾子は例の曲を本番用に取り直して廉に送ってきていたし、有楽町店ももうほぼ外装まで出来上がっている。


春も近いある金曜日の夜、泉との電話を切った後、とうとう廉は眠れなくなってしまった。

どうして俺はこんなにいい人をやっているんだ。近頃は昼も夜も泉のことが頭から離れない。けれど泉は東京へ戻ってくる気配がない。電話では「近いうちに」と口にするが、それがもうずっと続いている。これじゃ彼女の思う壺だ。

一体何ヶ月、俺は待てばいいんだ!


廉はもうただ話をするだけでは満足できなかったし、彼女が欲しかった。身も心も。公子がなくなる前は頑なに泉は自分を拒否していたが、今はそれなりに受け入れてくれているようだ。

一体何をためらうことがある?もしかしたら、俺がいつも強引で本当は迷惑なのかもしれないが……

いや、だったら、あんな風に自分のキスに応えるわけがない。廉はこの間、泉に触れたときの事を思い出した。

そうだ。あの柔らかくてほんのり赤い唇で、彼女はそっとささやくように応える。俺が手を添えるとあの白いうなじがびくっと震えて、はじめは驚いて固まっているのにそれがだんだん溶けてくる。ああ、彼女に触れたい。廉は自分がおかしくなりそうだと思った。


そうだ。俺はずっとおかしくなりそうだった。彼女を愛しはじめてから……


夜明け前、廉はとうとうマンションの寝床を抜け出した。どうしても泉を連れて帰る。もう一刻も待てない。


車を飛ばしている間に、廉は自分が落ち着くかもしれないとは思っていた。しかしその日は違った。泉を連れて帰る。必ず…。



静岡につくと、廉は車を家の前に止めて、チャイムを乱暴に鳴らし、泉が出てくるのを待たずに外から手を回して鉄の門扉を開けた。

ドアを2、3回叩くと泉が扉を開けた。

「廉さん…!?」

泉が驚くまもなく、廉は玄関に入って後ろ手にドアを閉め、泉の唇をいきなり奪った。こんな時間にやってくるとは思っていなかっただろう。けど、君がそうさせたんだ。

泉を玄関の壁に押し付け、逃げられないようにした。息もできないほどに泉の口を強く吸った。

「君は悪い女だ」

ひどい言い草だった。女性に対して言う言葉ではない。まして、泉に。わかってはいたが廉は心の中で泉を責めるのをやめられなかった。


俺を必要だと思っているのか?

廉は心で問い掛けてはいたが、泉に何も言うつもりはなかった。ものすごく怒っていたし、口を利きたくなかった。

泉がキスに応えているのを感じた廉は大胆になり、さらに迫った。ああ泉が欲しい。廉は自分の理性と戦っていた。激しいキスの後、廉は呼吸を整えるために身体を離しはしたが、ものすごい力で泉の肩をつかんだまま飢えた目つきで泉を見た。


そして廉は泉のブラウスに手をかけ、ボタンもはずさず両手でそれを引き裂いた。

「いや…廉さん、やめて!」

泉が驚いて声をあげ、はっと我に返った。泉は小刻みに震えながら涙目になっていた。

一瞬、ひどいことをしたような気になったが、それでも泉を許すことができなかった。どうしていいかわからなくなった廉は、たまらず泉を突き放し、家を出て行った。

残された泉は、廉が出て行った扉をじっと見つめながら、裂かれたブラウスの前を手で押さえて浅い呼吸をしていた。



一方、家を出て車を出した廉は、自分の気が狂いかけていると思った。

俺はおかしくなってる。本当に。

もう泉のことしか考えられない。泉が欲しいだけだ。

さっきは彼女の気持ちも考えずに、ただ、身体が欲しかった。もちろん泉は愛してる。もう理性などない。彼女といると。

俺はおかしいのだ。こんな年になって。まるでさかりのついた犬みたいに彼女を欲しがってる。


廉は自己嫌悪で真っ暗だった。