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 カデンツァ 第四章   


                        -11-


その夜、泉のところには廉からの電話はなかった。

泉も何度か電話を手に取ったが、かけることが出来なかった。冷静に考えると、自分があまりにも考えなしに廉を近づけていたのだと後悔ばかりが浮かぶ。

廉は自分の望むようにはならない。レグノを継ぐ人だ。

母が亡くなったから、さびしいからと言っていつまでこんな恋愛ごっこを続けるというのだ。彼に甘えたり、誘うようなことをして彼を惑わせるのはもうやめなければ。自分も大分普通にいられるようになってきたのだし。


しかし翌日、再び廉はやってきた。そして泉に一緒に東京へ戻って欲しいと言った。

「戻るつもりです。もちろん」

泉は言ったが廉の方は見ていなかった。もうあらかた荷物の無くなってしまったリビングで、泉は冬枯れの庭を見つめていた。

「僕と一緒に戻って欲しい。僕のマンションへ。今すぐ」

廉は泉の手を取って、自分の方へ向かせた。ああ、何を言いだすつもりだろう?

「僕と結婚してくれ」


泉は自分の心臓が止まるかと思った。それが本当にできるなら、言われて幸せにならないはずがない言葉だった。そんな予感はなかったと言えばうそになる。

しかし泉は廉をちらと見て、ゆっくり自分の手を廉の胸に当て、そっと押し返すようにした。

廉はそれでもその手は離さなかった。

「君がしり込みしてるのはわかる。けど、僕はもう君がいないとおかしくなりそうなんだ。昨日みたいなことはもうしたくない。ものすごく惨めだった。だから今日は君が何と言おうと、東京に連れて帰る。わかった?」


泉はなんと返事をして良いのかわからなかった。そして、その断固とした態度に逆らうこともできなかった。

東京へ帰る。けど、あなたの部屋へ?

泉は不安を抱えたままだった。



それから後の1時間はまるで戦争だった。廉にせかされながら荷物をつくり、車に載せた。どうせあと何回か片付けに来なければならないから、最後は廉に、放って置くように言われた。廉はとにかく東京へ戻るのを急いでいた。

車を飛ばして東京まで戻ってきたときには、もう夜になっていた。泉は以前、ここから夜中に逃げ出したことをまた思い出した。マンションの地下駐車場に車を止めると、二人は大きな荷物をいくつか持って廉の部屋へ上がった。

廉の部屋は以前と全く変わっていない。リビングの大きなサイドボードが自分のみじめったらしい姿を映し出すのも、音楽室のグランドピアノが自分の部屋のものよりずっと良い音でなるのも、一度だけ一緒に過ごした寝室のベッドが廉のサイズに合わせて大きいのも。

廉はもうずっと前から泉をここへ連れてくることを考えていた。だから既に自分の使っている寝室のたんすの引き出しを2段ほど空けて、泉のものが入れられるようにしてあった。

そこには泉が使うための新しいタオルや、廉が使っているのとおそろいの女性用のローブ、それにホテルに置かれているような女性用のアメニティセットを入れておいた。泉が驚いて廉の方を振り返ると、

「家政婦に頼んどいたんだ。今日から女性と一緒に住むって言ったら驚いてた。でも彼女には続けて来てもらうことにしてるから」

と言って笑った。そういえば、廉のところにはずっと以前から家政婦が来ているのだ。週に1回、掃除に来てもらっていると言っていた。

「そう。だから、君は掃除はしなくていい。僕は君に家事をやってもらうためにここへ連れてきたんじゃない。僕は自分のことは自分でやるから。洗濯も、もちろん食事もだ。僕は平日は帰るのが遅いから外食になる。君も僕を待たないで、自分で何か作るなり、外食するなりして欲しい。週末だけ一緒に出来ればいい。作るなり、外に出るなり、その時に決めよう」

一緒に生活するなら他にも色々と話し合っておかねばならないことがあるはずだったが、廉はその日はそれ以上は言わなかった。明日は月曜日だし、もう11時を回っている。

廉は泉を先に風呂に行かせて、泉が出た後に自分も入った。泉は廉のようにローブ一枚でうろうろすることはとても出来そうになかったので、自分が持ってきたパジャマを着ていたが、何だか頼りない。それが寒そうに見えたのか、廉は泉のローブを引っ張り出して、パジャマの上から着るように言った。これが結構暖かい。

「でもすぐ脱がせるつもりなんだけどな…」

小声でつぶやいた廉がにやりと笑った。泉は耳まで真っ赤になった。


風呂から上がったばかりの廉は、泉に「飲むか?ウイスキーか、ワインか、ビールか、あとは…ウーロン茶。酒もあるが」と訊ねた。廉はいつもウイスキーをロックで飲む。Jでそうしていたように。

泉は「じゃあ、ウーロン茶を。私が…」と言って、廉と一緒にキッチンに立った。廉は自分用のグラスが入っている場所を教えた。

「君のグラスは今度一緒に買いに行こう」

廉は客用のグラスと自分のグラスに氷を入れ、酒を注いだ。


それから30分ほど、廉は有楽町店の仕上がり具合を話した。それに綾子が昨日、USから戻ってきているはずなので、近いうちに連絡があるだろうと言った。

なんて一日だろう。こうして、だんだん自分の周りが動き始める。

自分も少しずつ、動き出さなければ。


泉は、廉のことをちゃんと考えないままここに来てしまったことを後悔していた。

彼は結婚して欲しいと言ったのだ。それに返事もしないまま、こんな風にずるずると。





泉の表情に疲れを見た廉は、「そろそろ寝よう。明日僕は仕事だから」と言って立ち上がった。

グラスを片付けて、二人はベッドに入った。冷え切ったシーツの中でお互いの体温で温まるように抱き合う。泉は何だかおかしくてくすくす笑いだした。

廉の唇が泉に軽く触れた。しかし、泉はその優しいキスを何度も受けながら、疲れていたのかすぐ眠りに入ってしまった。


やれやれ。俺はこれから寝不足がひどくなりそうだよ。



廉の身体の一部は既にすっかり反応していたが、泉の身体の上から自分の身体をそろりとよけて泉を静かに眠らせた。

まるで子供のようだ。悪気がないのが憎らしい。

廉は眠りにつけないその頭で、自分の両親にどうやったら泉を認めさせることができるか考え始めた。